幻に消えた村山軽便鉄道2

 さて、いつ出来るのか? 村人達、村山貯水池建設関係者は最大の関心事として見守ったことでしょう。こうして調べている者も気をもみます。
 ところが、ところがです。どうしたことか、免許が下付された同じ年に計画は突然頓挫してしまいました。しかも、権利が他の鉄道事業者に売り渡されます。

・大正4年(1915)3月25日、総理大臣から村山軽便鉄道に免許状が下付されました。なんと、その12月です。
・大正4年12月28日、発起人総代より首相に対して、村山軽便鉄道敷設の権利を一切、川越鉄道に譲渡する旨が申請されました。
 知りたい経緯は不明です。
 第一次世界大戦の影響による経済的事情、政治的背景、他の鉄道事業との関連などの指摘があります。
・大正5年(1916)3月1日、工事施行認可申請を延期
・大正5年5月20日、譲渡が許可されました。
 この間、何があったのか?知りたいです。

村山軽便鉄道目論見図 ごく大まかな概念図です。(クリックで大)

免許は新しい路線に生まれ変わった

・大正11年(1922)、川越鉄道は西武鉄道と改称し、新しい会社になりました。この間いろいろ変化がありましたが、ややこしいので、現・西武鉄道と区別して、旧・西武鉄道として書きます。
・昭和2年(1927)、旧・西武鉄道は旧村山軽便鉄道の免許を流用する形で、東村山~高田馬場(仮駅)間を開業しました。村山線と呼ばれました。
・昭和5年(1930)、旧・西武鉄道は村山線を延長して、東村山~村山貯水池前間を開業しました。
 旧村山軽便鉄道の免許の一部で、現在の西武園線の原型となりました。
 村山貯水池前から箱根ヶ崎までについては、工事施工認可申請の延期を繰り返しましたが、着工はしませんでした。
・昭和6年(1931)、工事施工認可申請の延期は認められず、村山貯水池前から箱根ヶ崎間は実現しないまま、免許取消となりました。
 このことを調べている際、発起人の一人であった奈良橋村の根岸菊太郎の身内の方が
 「その報告を受けたときに、菊太郎は地団駄(じたんだ)踏んで悔しがった」
と話されたのを聞き、怒りの実感が伝わりました。

その形跡が残されている

 さても、村山軽便鉄道が生まれなかったことは残念至極です。今も、青梅街道、新青梅街道周辺を通るとその思いが増します。せめて、西武新宿線が生まれたことで、メデタシ・メデタシとするのでしょうか。

 『東大和市史資料編』2は、「免許は現在の西武鉄道新宿線、西武園線へと、形を変えて継承されている」(p161)とします。
 武蔵大和駅付近の高架橋に「箱根ヶ崎架道橋」と不思議な名前が付けられています。由来を遡ると、幻の村山軽便鉄道にもたどり着けるのでしょうか。

武蔵大和駅ホームからの箱根ヶ崎架道橋の表示 クリックで大

志木街道に架かる高架橋(2015.03.22.の状況 現在、この表示は左、向こう側に書かれている クリックで大)

 貯水池建設の資材運搬に使用を目論んだ東京市は、軽便鉄道が利用できず、直営で東村山軽便軌條を敷設することになりました。
 結局は、箱根ヶ崎~東村山間を通る鉄道は実現できませんでした。しかし、通して考えると、大正初期の人々のエネルギの凄さに圧倒されます。

  (2019.12.23.記 文責・安島)

 幻に消えた村山軽便鉄道1

 村山貯水池の建設

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