井戸の水がなくなり
 米軍大和基地の給水車から給水 
  
 昭和37年(1962)3月、地下水の水位、流路の関係でしょうか?
 町のあちこちで、井戸の水がなくなり、飲み水も汲み上げることができなくなりました。

 「村山貯水池があるのに、その地元で水がないとは!」

 と皮肉もとんで、大騒ぎです。
 幸い、米軍大和基地から給水車を出してもらい、急場を凌ぎました。
 当時の大和町広報は次のように伝えます。

 「地下水位の低下、異常渇水による飲料水の不足は、ここ二、三カ月町全域にわたる現象ですが、特に芋窪地区の水不足は深刻で、困窮家庭は一五〇世帯にものぼりました。
 去る三月十二日の定例町議会でこの問題が取り上げられ、その対策として、日米連絡協議会を通じ米軍給水車による配水方を依頼することになりました。
 その結果、米軍大和基地司令官の好意によつて、給水車二台で毎日配水が実施されることになりました。」

 町は、この状況を解消するため、昭和37年(1962)6月26日、簡易水道から町内全域に上水道のひく計画を決定しました。その工事が進んでいました。
翌年もまたまた水不足

 ところがです。昭和38年(1963)3月からまた水不足になりました。

芋窪地域で米軍給水車から給水を受ける
昭和38(1963)年4月1日の大和町広報(27号)
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水不足、今年も深刻
 芋窪地区に 米軍給水車を依頼

 「昨年は、何十年ぶりかの渇水とさわがれ、とくにひどかつた芋窪地区には、三月から四月にかけてと、十月に米軍大和基地の厚意で、給水車による給水を煩わしましたが、今年は昨年以上の渇水で、町内いたるところで、水不足に悩まされています。

 特に芋窪地区は、軒並みに井戸水が枯れ、飲料水を求めるに窮々たる世帯が続出して、その数一五〇世帯にものぼり、この窮状を打開するために、米軍大和基地の給水車を依頼、昨年同様、一日十トンから十五トンの給水を受けています。この給水は、降雨等で井戸水の出るまで、続ける予定です。(水道課)」

 この状況は次の昭和39年(1964)にも起こりました。
 今度は夏場の渇水で、地域も狭山約60世帯、清水約20世帯、奈良橋(庚申塚)約15世帯と広域になりました。この時も米軍給水車からの給水を受けています。
 こうなると給水は町の地域全体に及び米軍基地もさぞ大変だったろうと頭が下がります。

樫の木の碑

友情の印として町から米軍基地に贈られた樫の木の碑
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 都立東大和南公園 大和町寄贈
 These Oak trees were donated by Yamato-machi as a token of friendship april 1964

 町は基地ができることよって生ずる教育環境の悪化を懸念し反対運動を起こしました。
 強制収用の動きから、基地建設は確実となり、中学校を移転しました。
 基地周辺に風紀を悪くさせる環境が生まれるのではないかとの心配が続きました。
 それは懸念だったようです。むしろ、今回紹介したように、友好・歓迎の面が生まれてきていたようです。
 昭和39年(1964)4月、町は感謝の印でしょうか、大和基地に樫の木を贈っています。
 そのときの碑が、現在、都立東大和南公園の運動場に当時の樫の木の場所を示しているかのように残されています。樫の木の碑については別に記します。

(2020.08.14.記 文責・安島)

樫の木の碑

大和町日米連絡協議会

米軍大和基地の建設

東大和の歴史・現代