東大和市の地名(2江戸街道まで)

東大和市の地名(2江戸街道まで)

「さー、始めんべえや!」
「よーし、やんぞー」
「負けちゃー、いられねえーぞ」

 承応2年(1653)に玉川上水、そして、承応4年(1655)に野火止用水が開削されました。
 その分岐点が玉川上水駅の近くに設けられました。その翌年です。
 分岐点から東にかけて、岸村(現武蔵村山市)の小川氏が新しい村の開発の許可(小川村)を得ました。

玉川上水・野火止用水・小川村の開発と芋窪村~清水村の位置関係
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 狭山丘陵の麓に住んでいた芋窪村から清水村の村人達も待ってましたとばかり
「そーれ、俺たちも!」
 と、前面に広がる原野への耕地の拡張に乗り出しました。

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 村人が砂の川(現在の空堀川)を前にした時です。
「この辺で、名前をつけるべえ」
「そうじゃねえと、どこだかわかんなくなっちまうもんな」
 村人は、自分たちの住んでいる場所が「川」「沢」「田」「谷ッ」などの地名が多いことを思い浮かべながら
「あんだか砂っぽいな」
「んだって、砂の川が目の前だんべ」
「そんじゃー、“砂”にすんか?」

狭山丘陵の麓から開発が始まり、砂の川に至って付けられた名前の様子。クリックで大

 こうして「砂」が地域の名前になりました。
 芋窪村では「上砂」「中砂」「下砂」となっています。
 余程、地形が似通っていたらしく、蔵敷村から清水村まで、横並びに何らかの砂の名前が付けられています。
 また、所々にくぼみがあったようで、久保・窪が出てきます。

 

現在も芋窪地域に残る「中砂の川橋」下流から。
 改修事業が進むが、旧来からの砂の川の状況が残る。手前の空地が「砂」
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一度下(くだ)って、台に

 「砂」は武蔵野台地を砂の川(空堀川)が削りながら残していった跡です。
・現在では、地形が川に向かって下り、やがて登る状況は見分けがつきませんが
・奈良橋の東芝中橋のところで、どうにか、その様子が見えます。

蔵敷地域の東芝中橋から下流方面 左・狭山丘陵 右・野火止用水、東大和市駅方面 クリックで大

・左側が狭山丘陵方面です。下りながら開墾を進めてきて、砂の川に達しました。
・その間を多くの村が「砂」に関する名前を付けました。
・その後、右側に向かって登りながら開墾を続けて、台地の上に出ます。
・ここでは、「台」に関わる名前が並びます。
・そして、江戸街道が通って居ました。青梅の成木から江戸へ石灰を運んだ道です。

 台地に上がり、野が広がりました。
「よーし、原に出た」
「ちっとんべえ高くなって、やっぱり、江戸街道はいいところを選んだな」
「あんちゅったって、坂がねえ、谷ッの曲がりもねえしな」
「家が一軒もねえのがさびしいな」

 村人達はこの地を「立野」「台」「江戸街道」と名付けました。
・名前に見事に当時の地形とその状況を籠めています。
・「久保」「窪」の地名が出るところは
・やや低く、大雨の後には水がたまるところを敏感に区別しました。

街道内 江戸街道(新青梅街道)から砂の川(空堀川)に下る地形が残されている。
 江戸時代からの農業が続けられ、旧石器時代から縄文時代に至る貴重な遺跡が内蔵されている。クリックで大

ちょっと横道

 江戸時代の村人がどのくらい地形に敏感であったか、当時の地形の復元です。
 点線の枠内が東大和市域です。芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、清水の村々が隣り合っていました。

武蔵野台地の地形 大和町全図などから復元 クリックで大

 砂の川は東京湾へと徐々にゆるやかに傾斜する谷地を辿って東へと流れます。
・江戸時代には、高低がはっきりして、東大和市内では
・狭山丘陵の高さが約130㍍
・南に広がる原野は
 ・西から東にかけて東京湾
 ・北から南にかけて多摩川の方向
 に向かって100㍍から80㍍の傾斜があり
・奈良橋川と空堀川が流れ
・白い破線の箇所に太古の川の流れの跡のように窪地が続いて
 いました。
 これらの微妙な高さが地名に反映されていることがわかります。

村の様子(奈良橋村の状況)

 村人達が原の開発に向かった頃の村の様子です。奈良橋村絵図が残されています。
 黒丸が人家です。ほとんどが狭山丘陵の南麓に集中しています。
 時代は、蔵敷村と奈良橋村が共に描かれていることから、蔵敷村が分離したとされる正徳年中(1711~16)以前と推測しています。

奈良橋村絵図 時代不明 砂の川(空堀川)以北が描かれている。クリックで大

 丘陵の雑木は薪・炭の原料として重要視されました。
 耕作地を増やす方法は、武蔵野の原野を新しく開墾することが唯一の方策であったと推測されます。

開発の年代

 狭山丘陵の麓から江戸街道まで、どのくらいの期間を要したのかを知る資料があります。
 芋窪の旧家に「寛永六巳年改本田御検地帳写」が残されています。この中に、
                                          
 「万治元戌年八月
   立野
  一、壱反三畝六歩
     此取京銭弐百八十六文 夫銭・口銭共
                       太郎左衛門
                      以下二十四名」
 の記述があります。
・万治元年(1658)8月に、
・立野地域を芋窪村の農民が新田開発をして
・25人に、1反3畝6歩ずつ均等に配分したことが
 わかります。
 砂の川(空堀川)を超えて江戸街道に達する間が「立野」です。
 小川村の開発が認められて2年後、東大和市域の人々は江戸街道まで開墾を進めました。
 その地を「立野」「砂台」「海道内」「江戸街道北」「立野窪」と名付けました。

久保・窪の地域

 江戸街道までの開発の中に、「西久保」と「立野窪」があります。下の画像が立野窪の地域の現状です。
・西側(右)から東側(左)への勾配(段差)があります。
・正面の江戸街道方面への昇りがきつい。大雨が降ると水たまりができました。
 このような地形を「くぼ」と呼びました。久保と窪の区別ははっきりしません。
 通例では、久保は窪の好字とされます。
 古老に聞くと
 「“久保”が、いい字かどうかわかんねえけんど、“窪地”は、嫌な気がしたかも知んねえ」
 「とれ(収穫)が少ねえし、作るもんも限られたからな」
と云います。

立野窪と名付けられた清水区域。西側(右)から東側(左)への勾配(段差)とともに、江戸街道方面(正面)への昇りがきつい。
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 村人達は様々な地形を克服しながら、南へと開墾(新畑開発)を進めます。そのたびに、新たな名前が付けられました。
 江戸街道から南については次に続けます。

 (201.02.07.記 文責・安島喜一)

 東大和市の地名1(地名のあらまし)

 東大和市の地名3-1江戸街道から原1

 東大和市の地名3-2江戸街道から原2 

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