村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居
村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居
村山貯水池に沈んだ地域には、162戸の家々がありました。161戸との記録もありますが、市民グループの調査により実際に復元した数は162戸でした。その配置は下図の通りです。
沈んだ村
当時の村は、村山貯水池に沈んだ区域から玉川上水、野火止用水に至る間、細長く、ギザギザに入り込んだ境界を接して成り立っていました。谷ッに成立した集落が、玉川上水、野火止用水の開削(承応3年~4年・1654~55)を契機に、ここぞとばかり南へ南へと武蔵野の原野を開拓したことによります。
貯水池に沈んだ区域とは南麓の峰を超えて、例えば「芋窪村」のように一村を形成し、南麓を表組、沈んだ区域を裏組と呼んでしました。
裏組(湖底地域)の戸数は次の通りです。
芋窪村 48戸(石川 豊鹿島神社創建(慶雲4年(707)の伝承を伝える)
蔵敷村 5戸
奈良橋村 5戸
狭山村 56戸(内堀(江戸時代には宅部村として一村を形成)、後ヶ谷)
清水村 48戸(江戸時代中期にはこの地域で一村を形成 上宅部)
高木村 0戸
家屋
この家々は、大きな谷ッの斜面を利用し、階段のように平坦な部を造成して敷地としました。
生活の知恵でしょう、日常生活の本拠となる居宅を中心に物置きや倉庫、家畜小屋を配し、谷底方面や峰越しにくる風よけに頑丈な防風林をつくっていました。その下方に自家用の野菜などを栽培する「前畑」を営んでいました。
貯水池の建設が行われた当時の姿については『多摩湖の歴史』から一部を引用して紹介します。
「屋敷の面積は三〇〇坪(約一〇〇〇平方メートル)から六〇〇坪ほどもあり、大きな農家では九〇〇坪くらいもあった。しかし全体的には表の村よりは狭かったようである。
屋敷は多くのものが斜面にあったので、周囲には竹や欅(けやき)・樫(かし)・楢(なら)等を植えて崩れるのを防いだ。また屋敷内には梅や柿が何本もあった。
常口(じようぐち)には欅や樫の大木を、裏には竹薮の家が多かった。山沿いの方には防風林はなかったが、平地には屋敷林があって樫(かし)が多かった。それは樫の葉が火にあおられると自ら水分を出してふくらみ、風を外にあおり防火の役目をしたからだという。また、樫は井戸の囲に植えておくと井戸が崩れなくて良かった。
湖底の調査のときに、川南の宅部地区に三〇×二〇センチの太さの切株が三・五メートルの間隔で残っていたが、それは原五郎衛門さんの屋敷跡で欅の切株だと聞いた。原さんの家では移転してからその欅で家を建てたら一本分足りなかっただけだったという話であった。
屋敷には母屋・土蔵・物置・便所などが建てられ、井戸はどこの家にも掘られていた」(p256)
井戸
日常生活上の飲料水は、上水道はなく、すべてが自家用の井戸に頼っていました。土地に段差があり、水脈の関係から、それこそ手柄杓(てびしゃく)で汲める井戸から、地面の高いところでは深さ10メートル以上の掘削を必要とする所までありました。
水質も様々で、多くの方々が清らかなよい水だったと云われましたが、中には濁り水や鉄分が多くて何回も井戸を掘り返したという方も居られました。井戸の廻りには大きなケヤキを植えて水涸れを防いだとされます。
内堀地区に「デンドロの井戸」と云われ、狭山丘陵を背負ってきたという巨人・デエダラボッチの踏ん張り址とも語られます。『東大和のよもやまばなし』に「でいだらの井戸」が採録されています。
灯明とランプ
問題は照明でした。夕日が早く落ち、夜が長いと云われた地域です。電灯は通じていませんでした。
村人達は狭山丘陵の峰にボーッと赤い火が点々と付いたり消えたりするのを見て、「アリャ、狐の嫁取りだー」云い、遠く東の空が明るく灯されるのを見て「あれが東京ダベ」と眺めたそうです。『東大和のよもやまばなし』「きつねの嫁どり」をご覧下さい。
東大和市域には大正6年(1917)に電気が通じました。湖底の村では、用地買収が問題になる頃は、まだ灯明とランプ生活でした。その様子を『多摩湖の歴史』は次のように記します。
「灯(あかり)はほとんどランプであった。ガラス製の石油入れに口金をつけ、芯をさして石油をひたし、芯に火をつけ、まわりをガラス製の火屋(ほや)でかこったもので、火屋がまっすぐの筒状のものと、ふくらんだ形のと二通りあった。芯の幅で二分芯・三分芯・五分芯があった。木綿がすりを織るのも薄暗いランプのあかりであった。
「せいとう」といって、灯明皿に菜種油(なたねあぶら)を入れ、糸より太く軽い芯をのせて、一方の切口に火をともしたものもあった。主に灯明として神棚に使ったが、安くつくのでふだんの照明にせいとうを使うこともあった。」(『多摩湖の歴史』p257)
湖底に沈んだ村の生活は、南麓の村にも通じます。東大和市域の大正時代を語るものとして紹介しました。
(2019.01.16.記 文責・安島喜一)
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