勝楽寺の里
勝楽寺の里
山口貯水池の建設により湖底に沈む勝楽寺の里から30戸の方々が東大和市の芋窪と奈良橋地域に移転されました。
その里は村山貯水池に沈んだ石川の里と峰を境にして隣接し、深い関わりを持っていました。
勝楽寺地域は明治35年(1902)、山口村、上山口村と合併して山口村となる以前は「勝楽寺村」として一村を形成していました。『狭山之栞』は
「この地は敏達天皇の時代に高麗国の王辰爾が来朝して寺を建立し、勝楽寺と号したことから、村名となった」(意訳)
と記しています。
所沢市史は
「山口の仏蔵院は、かつて大字勝楽寺にあったが、昭和四年(一九二九)、同地が山口貯水池となり、現在地に移転したが、寺伝によると高麗王辰爾の創立で辰爾山仏蔵院と号したという。これは入間郡日高町の高麗若光をまつる聖天院と同じ寺号である。
また同寺には、旧勝楽寺から移動した文永三年(一二六六)の板碑があり、住僧寛明が北条氏調伏の祈濤をしたことが発覚して、寺を焼かれ、その時死亡した人々の供養碑であるとの言い伝えがある。板碑はこのほか、嘉元三年(一三〇五)、暦応二年(一三三九)、康正三年(一四五七)がある。いずれも旧勝楽寺から移されたものである。」(上p470)
とします。
仏蔵院に伝わる『往譲旧録』は
「四十四代元正帝 霊亀二丙辰に高麗人来居し一寺を建てる。阿弥陀、歓喜天 敬入り、勝楽寺聖天院と号し、四年にして二尊を抱きて、北に移る。今高麗郡高麗村と子孫多くあり、一寺を建て、聖天院勝楽寺大彌堂と云う・・・」
と現在の日高市の高麗神社との関連を示唆しています。
古い独特の由緒ある歴史を積み重ねた地域です。
移転の状況
勝楽寺地域に居住していた方々がまとめた『湖底のふるさと』(湖底の古里の調査編集委員編集 昭和58年(1983)12月10日刊 調査同好発行会)から、移転の状況が次のようにわかります。
堀口
奈良橋へ9戸
刈谷戸
奈良橋へ8戸
神門
芋窪へ2戸
奈良橋へ2戸
中笠
芋窪へ7戸
大笠
芋窪へ1戸
奈良橋へ1戸
北入
0
合計30戸(p21)
湖底の生活
勝楽寺地域と石川地域は日常的な交わりをもち、また、湖底の生活は厳しかったようで、井上好太郎氏が次のように少年時代の追想を寄せています。
「少年時代の追想
井上好太郎
(前略)
村山貯水池の工事が初まる以前、従って私が四、五歳、大正二、三年の頃だったと思う。堀口部落から刈谷戸部落に通ずる刈谷戸橋を渡り、さらに部落を通り過ぎ、長尾根と称する尾根を越えて、今の上貯水池、当時は石川村だった。この石川村に下り、慶性院の近くが父の生家、ここによく遊びに連れて行かれた記憶などよく覚えている。さらに一升瓶を風呂敷で背負い、中藤村の醤油屋まで、僅か一枚の小皿を貰うためにお使いした事などの想い出はつきない。
今の子供には解らないだろうが、挽き割りのめしが当時の常食、麦をつぶした押し麦は今でもあるが、麦を臼で挽いたものに僅、かばかりの米の混じった飯に、味噌をなめながら塩辛い漬物.これが私達の普段の食事、風邪でもひいて熱でも出し、食べ物が入らない時でもなければ卵など食べさせて貰えなかった。米には間違いないが、南京米と称する臭い米を食べさせられた。暖いうちは先づ先づだったが、冷めたくなるとボロボロ。 (後略)」(『湖底のふるさと』p21)
現在も移転された方々の仏蔵院との縁はつながります。
諸仏を拝すると、改めて、勝楽寺の里のありし日の姿が浮かんできます。
(2019.08.19.記 文責・安島)