夢と消えた武州鉄道
夢と消えた武州鉄道 昭和34年(1959)
ルートは確定しませんが、東大和市のほぼ真ん中を横に貫いて通る鉄道の計画がありました。
東京の三鷹市・吉祥寺から出発して、埼玉県の秩父市・御花畑に達する武州鉄道です。
吉祥寺を起点として、小金井市ー小平市ー東大和市ー武蔵村山市ー瑞穂町ー青梅市ー秩父市・御花畑がルートだったようです。
当時の大和町は諸手を挙げて賛成し、積極的に対応しました。
昭和34年(1959)、早々とその沿線に当たる地に用地の買収が進められました。
その様子を、昭和34年(1959)12月15日、大和町広報が「武鉄団地の契約成立 軌道に乗って進む町造り」の見出しで躍るように伝えます。
「武州鉄道の用地として三団地およそ七万五千坪の農地の売買契約が成立した。
九月半ばから具体的な話し合いが進められ十月十六日東部、十七日中央、越て十一月一日西部と、各団地毎の最終交渉において、夜を徹して、折衝を重ねたすえ漸く妥結をみるに至つた。 正式の契約調印も、十月三十一日、十一月七日の両日とどこおりなく終了した。
僅か一ケ月余りの極く短時日の間に、このような大きな成果を収めることができたのは、地主の方々の利害を超越した協力と、武州鉄道協力会員の献身的な努力の賜物である。 本町と南街を結ぶ広大な地域の中におかれた三つの布石が、やがて、町史の一頁を飾る新しい町造りを軌道に乗せる礎石となつて、町の発展に大きな役割を果たすことであろう。」
鉄道が出来ることを前提に、町の発展のため、あらかじめ用地を準備したことを伝えます。
文面からも相当に熱が入っています。この背景です。
駅前は!商店街は!
◎当時の町には、北西に武蔵大和駅、南部い青梅橋駅、南西に玉川上水駅がありました。
全てが町の外周部で、町民は町の中央に駅を! それらを中心として形づくられるまちを待ち望みました。
そのようなとき
・武州鉄道株式会社が
・昭和34年(1959)1月14日、先に紹介したルートについて運輸省に免許の申請をしました。しかし、
◎丁度、この時、西武鉄道(株)が吾野ー西武秩父間の鉄道敷設の免許を申請していたことから、競合路線になる
◎武州鉄道が株式会社を設立するときに、大蔵省に提出した書類にはモノレールを建設することになっていた
などのことから、もめたようです。しかし早々と、
・昭和36年(1961)7月11日、運輸省は敷設免許状(三鷹ー御花畑間60.3㌔㍍)を交付しました。
町民は大喜びで、「さあ、鉄道が通る!」「駅前はどうなる、商店街は・・・」
と期待を膨らませました。
この間に、将来の街づくりの拠点にと先行的に土地の購入が行われたようです。
あっという間に夢は崩れる
ところが、免許が交付されてから2日後です。
・7月13日、用地買収に関する不正が摘発され、やがて
・免許に関する贈収賄事件が明らかとなって、役員、元運輸大臣など18名が逮捕されました。
・「武州鉄道汚職事件」です。
免許は取り消されませんでしたが、鉄道を設けることは空に消えました。
大和町民の一人として、驚きとともにがっくりしました。土地の提供者の気持ちはいかばかりであったろうと胸を打ちます。
「町造りを軌道に乗せる礎石となつて、町の発展に大きな役割を果たすことであろう」と先行買収された土地はどうなったのでしょうか。
いずれも東京都、東京都住宅供給公社、東大和市などが買い受け、東部団地は第二光ヶ丘団地、中央団地は都立東大和高校、市役所、中央公民館、中央図書館、西部団地は上北台団地などの用地となりました。
ここに、鉄道が敷かれていたらばと本当に残念です。
ごく概要を記しました。詳細は
①『東大和市史資料編』4p133~139
②東大和交通史研究の会(監修 北村 拓)『幻の武州鉄道』(蔵敷公民館まつり 参加)平成18年(2006)
『幻の武州鉄道』は東大和市民の会員が現地調査の上、免許申請や議事録など膨大な資料の調査を元に記されています。
③財団法人 たましん地域文化財団 『多摩のあゆみ100号』p97
などをご覧頂きたくお願い致します。
(2020.08.21.記 文責・安島)