鬼高式土器だけが残された(諏訪山遺跡)
東大和市でも古墳時代の人々が住んでいた住居址が発見される可能性がありました。現在の湖畔地区です。昭和41年(1966)この地域の開発が行われ、ブルトーザーが削平を始めました。
「昔の茶碗が出てきた」
との知らせに、現地へ飛んで行きました。工事現場に、写真の二つの土器が並べられていました。これが、東大和市で確認されている、唯一の鬼高式土器です。古墳時代後期・5世紀後半とされます。
残念ながら、現場に着いたときには、周辺はブルトーザーで攪乱され、現状をとどめていませんでした。住居址があったはずで、当時の何らかの姿を留めていたと推測されます。
さっそく、東京都の援助を得て、諏訪山遺跡調査会が構成され、明治大学に依頼して全面調査が行われました。結果は、貴重な縄文遺跡が発掘されました。しかし、ついに古墳時代の遺跡は発見できませんでした。
昭和41年(1966)の廻田谷ッ・廻田田んぼの全景です。右端に二つ池がありました。工事現場の人の話から鬼高式土器は左端の仮設事務所辺りから出土したものと思われます。狭山丘陵の峯からの湧き水を田用水として、山峡田(やまかいだ)を営み、生活の基盤とした家族が使ったものと思われます。
この地域には、その後、幸いなことに、平安時代の住居址が発掘されています。廻り田(めぐりた)、後ヶ谷(うしろがやつ)の地名が残ります。小さな集落が営まれ、東大和市の原住民になったと推測します。
(2017.08.30.記 文責・安島喜一)