山の神が原にまつられた

現在の狭山神社全景
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狭山神社本殿の石段を登ると左側に山神社があります。
歴史的には村人達が居住地としていた狭山丘陵南麓から遙か南の畑が続く一角にまつられていました。
いつ頃からまつられたのか創建年代については、古書が

『新編武蔵風土記稿』

山神社
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・山神社 除地、五段一畝六歩、南畑中にあり、纔(わずか)なる祠なり、村内円乗院の持なり、

『狭山之栞』
・山神社は野中にあり。祭紳野茅屋姫命也。祭典二月十七日。寛文九年三月下畑五反壱畝六歩の除地なりしが現今三畝拾四歩官有地となる。

 として、何れも創建年代を明らかにしていません。

山の神がなぜ、狭山神社境内にあるのかの問題です。明治39年(1906)までは、南の原中、現・第五小学校の近くにありました。それが、明治政府による、「一つの村に主要な神社は一社とする」方針によって狭山神社がその一社に定められました。そこで、山の神など各所にまつられていた神々は狭山神社に遷された経緯によります。

江戸時代~明治山の神社位置
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 もう一つ、山の神は一般的には山に祀られます。村人達は祖先と共に山の神に
・天候の安定、豊作を願い
・収穫が終わると感謝のために山からお招きして、ご馳走をして
・丁寧にお送りして、翌年の諸事万端をお願いをする関係にありました。

それが、狭山神社の山の神も含め東大和市内では、多くが原に祀られていました。狭山、高木、奈良橋地域では、「山ノ神」という小字を作って、その場を耕作地と区別しています。

そして、狭山地域では山神の祭神に「カヤノヒメノミコト」をまつります。カヤノヒメノミコトは原の女神、野の神様です。

村人達は山神社をまつる場所に「山の神」という地名を付けて区別した
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古事記では、イザナギ、イザナミの神は、風の神、木の神、山の神をお産みになり、引き続いて、野のためにカヤノヒメをお産みになります。カヤ=茅に表現される穀物や植物の生育を司る女神です。やがて、カヤノヒメは山の神=大山津見(おおやまつみ)神と結婚して、霧などの自然現象を司る神々をお産になります。

 東大和市域の狭山丘陵南麓の村々には、ほとんど水田がなく、武蔵野の原野を開墾した畑が生産の中心でした。祭神を原の女神とすることは、ごく自然でした。

 さらに、狭山地域では、祠を「山の神」として、カヤノヒメノと結婚した大山津見(おおやまつみ)神を一緒にまつっているかのようです。村人達の心持ちが温かく伝わります。

(2018.03.30.記)

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