慶性門
慶性門
村山貯水池中堰堤の北側、小高く張り出したところに門が保存されています。
慶性門です。貯水池が出来る前、石川の里にあった慶性院の山門でした。この地(東京都東大和市多摩湖3丁目)にあるのは、次の経緯によります。
・慶性院は村山貯水池の建設のため、丘陵南部(現在地)に移転、移築することになりました。
・大正11年(1922年)12月に着工、大正12年(1923年)3月30日に竣工しました。
・その時、資金の関係もあり、表門の移築は断念、貯水池用地内にそのままに置かれていました。
・この状況を憂いたのが慶性院を始め地元の人々、狭山貯水池愛護会のメンバーでした。
・狭山貯水池愛護会の有志(村の幹部も含む)が東京都に働きかけ、
・昭和29年(1954年)、東京都によって現在地に移転、修復しました。
・平成2年(1990)、東大和市へ無償移管、用地は東京都建設局所管となりました。
・平成2年(1990)~平成3年(1991)、東大和市が本格的に修復工事(3000万円)を行い、現在に至っています。
移転の経緯
この移転の経緯について、狭山貯水池愛護会の会報「狭山」(27号・1954年)は次のように記録します。
「この門の移設再現に数十万の予算が必要と云うので、果して移設する価値があるかどうか稻村垣元先生の踏査を乞うたことがあつた。
経理部の課長、給水部の課長も同道、樹の根を伝わり芒を分け、蜘蛛の巣を払いあの門に近づいた時には、建つているのはたただ小屋組だけで、今にも倒れ掛りそうで、正直なところ、も早たたんで薪材の価値しかない状態であつた。
先生は專門的にあれこれ指摘されて、約百年乃至百五十年前の建物であること、山門の型式ではないから当時何かの事情で名主階級の門をここに再建したものではないだろうか、兎も角も今後こうした型式の門は建てられないから、予算がゆるすならば是非保存してほしいとの御意見であつた。」
として、移転、修復が実現しました。
像がゆがんでいますが、この位置から全容を撮るのは素人には難しく、お許し下さい。
慶性門の年代
この門には由来がありました。柱の一部に文字が書かれていました。
①表門 欅の大柱の枘(ほぞ)に
奉 再 表門一宇 文久元辛酉十一月廿六日
住持 恵鏡 名主 景左衛門
又別の枘に
②古表門 四本柱 再建 長屋門
大工 田中彌五衛門 木挽 菅沼孫右衛門
と書かれていました。
①では、文久元年(1861)に再び表門が建てられたこと
②では、古い表門は四本柱であったこと、再建したものは長屋門であること
が明確になりました。
名前から、名主 景左衛門は芋窪村の尾又景左衛門、田中、菅沼氏はいずれも石川の里の人々であることがわかります。
なお、東大和市教育委員会は扁額の裏面に、嘉永3年(1850)の銘がある事を明らかにしています。
建て替え前の表門に掲げられていたことが想定されます。
保存が待たれる
市が修復工事を行って30年が経過しました。屋根が痛みを告げています。何らかの手法で保存されることが待たれます。
どっとネット仲間の「慶性門は泣いている」が実態を伝えます。
(2021.09.20.記 文責・安島喜一)