韮山県と品川県を行ったり来たり (明治の最初に属した県)
韮山県と品川県を行ったり来たり (明治の最初に属した県)
幕末から明治初年にかけて、東大和市域の村人は
「いってえ、おら方はどうなんのよ?」
と、新しい府県制度に戸惑いました。
慶応4年(1868)閏4月27日、政体書が公布され、地方支配の機構が定められました。版籍奉還、廃藩置県に先立つ「府・藩・県三治制」と呼ばれます。
・全国を府・藩・県に分け、府に府知事(知府事)、藩に藩知事(知藩事)、県に県知事(知県事)を置きました。
・府は京都、大阪、長崎、奈良、越後(新潟)、度会(わたらい)(現在の三重県)、佐渡、東京、神奈川、甲斐の順序で設けられました。
・県は幕府直轄領(天領)および旗本知行地を新政府が没収して設けました。
・韮山代官の江川太郎左衛門(英武) の支配地は、江川が早期に新政府に参加したことから、その支配地の管理を引続いて江川に命じ、韮山県としました。
◎東大和市では、どうなったのでしょうか?
幕末(安政2年1855)の各村の統治状況です。
蔵敷村、奈良橋村、宅部村、後ヶ谷村=幕府領
江川太郎左衛門が代官でした。
芋窪村、高木村、清水村=幕府領と一部が家臣の領地(旗本領)
幕府領、旗本領が混在していました。
幕府領(天領)・旗本領(私領)混在の実態
東大和市蔵敷の内野家に、安政2年(1855)に各村の石高や領主を関東取締出役に報告した文書が残されています。それをもとに表にまとめました。ただし、芋久保村はその文書に含まれていませんので他の資料によります。
・清水村の幕府領の家数が0です。これは他の資料に「新田」と記され、幕府領には住人がいなかったことを示します。具体的な場所は不明です。
・芋久保村の旗本領の家数が不明ですが、『新編武蔵風土記稿』(多摩関係は文政5年・1822完成)では140戸となっていますので、旗本領には60軒程が存在したと推定できます。
幕府領(天領)・旗本領(私領)混在の実態
各村の混在の実態が不明な中で、幸いなことに高木村地域について下記の絵図が残されています。
高木村では天領を黄色、私領を緑色で区別してみました。
図を写していて驚くばかりです。高木村の村内だけでなく、隣接する奈良橋村に高木村の天領と私領が食い込んでいることにご注意下さい。
おらが家は、どっちの県? 一つの村が二つの県に!
この状況の村に、明治新政府による新たな府県制が適用されました。
東大和市周辺に当てはめられた方針は原則として
・旧徳川幕府直轄地=天領 ⇒韮山県
・旗本領=私領、新政府が没収⇒品川県
でした。このまま適用されたとすると次のようになります。
南北に細長い村は天領と私領があり、2県に区域分けされることになりました。
・韮山代官江川氏の支配地が「韮山県」
・旗本領が政府に没収(=上地)されて、武蔵知県事古賀一平に属し、
明治2年「品川県」に区分けされました。その結果
◎蔵敷村、奈良橋村、後ヶ谷村、宅部村は村の全域が天領支配地であったため韮山県。
◎芋久保村、高木村、清水村では天領と私領が混在しているため、
一部は韮山県、一部は品川県になりました。
一つの村が2つの県に分かれた実態はすさまじいものでした。高木村の状況を紹介します。
同じ地域にありながら、ところによっては隣近所で、しかも隣接した状況で、片方は韮山県、片方は品川県です。
さすがの東大和人も、さぞ面食らったものと推察します。ただし、この状況が直ちに実行されたかどうかは不明です。不都合を克服する試みが為されたと思われます。その状況は、現在のところ明らかではありません。
明治4年(1871)12月、東大和市域内の全ての地域が神奈川県に属して、ようよう、県の混在は解消されました。この過程は時間をかけて、実態を追って行きたいと念じています。新しい制度の変遷については東大和市史(p252)にわかりやすい図があります。
(2018.08.20.記 文責・安島喜一)