廻田谷ッ東遺跡
廻田谷ッ東遺跡(10世紀後半・平安時代)
歴史って楽しいです。
特に古代から中世にかけての遺跡探しは胸を躍らせます。東大和市でも話題が沸騰したことがあります。
2001年7月15日、東大和市内で最初の中世遺跡かと胸をとどろかせる発掘がありました。
狭山丘陵の南麓、湖畔一丁目です。久しぶりの発掘調査でした。
現在は廻田谷ッ、廻田谷ッ東遺跡、廻田谷ッ地域は西武団地、東邦団地になって、地図の姿とは大きく変わっています。
二ッ池は、図の位置にあります。
画像に見えるような、誰かが斜面と平地をくっつけて、柱の穴のようなものを残している。この種のものは未発見でした。発掘のリーダーは云います。
「丘陵の斜面を削って平地としています。柱穴とも思われる遺構があります。
これは「段切り遺構」と呼ばれます。中世の勢力者が宅地開発をした跡かも知れません」
沸き立ちました。もしかしたら、廻田地域を治めた最初の実力者の姿がわかるのでは・・・!!
さっそく、「廻田谷ッ東遺跡」と命名されました。
「柱の跡とすれば、もっと形が整っているはず・・・?」
「それに、平面が少なくて段差があるし・・・?」
発掘の仲間からはチョット待ってとのうめきも聞こえました。
やがて、土器が掘り出されました。
これで時代が解けます。待ってる時間は長いです。
「まだはっきりしないんですか」
「慎重なんですよ」
と繰り返していると電話がかかってきました。
「10世紀半ばから後半にかけての須恵器でした」
「ホントー・・・?」
「でも、これからですよ、中に、美濃産と推定される土器がありますよ」
「そんなに遠くと交流してたわけ・・・?」
結局は、現在のところ、10世紀後半・平安時代のものと考えられています。
しかし、周辺には、関連する遺跡が眠っている可能性があります。
それに、この時代に、狭山丘陵と美濃と交流があったとすれば、と夢を膨らめます。
(2018.10.07.記)
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