将門の乱と西楽寺の不動明王像

将門の乱と西楽寺の不動明王像

 東大和市に平将門(たいらのまさかど)の乱(承平5年・935)に関わる伝承があります。乱との直接の関係は薄いのですが、村山貯水池に沈んだ西楽寺(さいらくじ)の不動明王像です。

 西楽寺は、かっての後ヶ谷村(うしろがやむら)にあり、地元では「せえらくじ」または「西楽庵」と呼びました。十数戸の家々の菩提寺で三光院の末寺でした。古い図を見ると、寺の東側に、鎌倉街道の脇道が通っていて、それに沿うように縦に細長い溜池がありました。当時の交通路と村人の共同生活が偲ばれます。

村山貯水池に沈んだ西楽寺位置図
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 紹介する不動明王像は、将門の乱の時に功をなした藤原秀郷が戦勝祈念に大事にお守りしていた不動尊で、一時、西楽寺にまつられていました。現在、渋谷区幡ヶ谷の荘厳寺にうつり、その経過が『新編武蔵風土記稿』(豊島郡)と『江戸名所図会』に、幡ヶ谷不動堂として記述されています。
 長くなりますが原文を引用します。

『新編武蔵風土記稿』

荘厳寺 不動堂 静かに手を合わせると西楽寺のことが次々と浮かんできます。
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「不動堂 木佛立像長三尺三寸智証大師作縁起に云。智証大師三井寺開基ノ時、自此不動ヲ彫刻シ彼寺ノ本尊トセシカ、天慶二年平貞盛、藤原秀郷等、平将門追討ノ時、秀郷此不動に祈誓ヲコメ陣中マテ守り行きテ喝仰(かつぎょう)怠り無ク果シ、勝利ヲ得タリシカハ、凱陣の頃下野国小山ノ郷に安置セリ。

 其後遥星霜を経テ、永禄年中武田信玄甲州七覚山辺に移シ崇敬セシヲ、北条氏政奪取(うばいとりて)テ相州筑井□□院に納ム。然ルに天正一八年北条氏没落ノ後、東照宮、代々ノ武将崇敬アリシ像ナル事ヲ聞シ召シテ、多磨郡宅部村三光院に移シ給ヒ、延享四年九月霊夢ノ告アリテ当卉に安置スト云」(二を「に」に置き換えました。相州筑井は現・神奈川県津久井、□□は確認中です。)

 意訳します。
 木佛立像 長三尺三寸
 智証大師が三井寺を開基した時、自らこの不動を彫刻して本尊とした
 天慶二年(939)、平貞盛、藤原秀郷等、平将門追討の時、秀郷がこの不動に祈誓をこめ陣中で守り、勝利を得たので
 凱陣の頃、下野国小山の郷に安置した。

 其後、遥星霜を経て、永禄年中(1558~1570)、武田信玄が甲州七覚山辺に移し崇敬したのを
 北条氏政が奪取(うばいとりて)て相州筑井□□院に納めた。
 天正一八年(1590)、北条氏没落の後、東照宮(徳川家康)が、代々の武将が崇敬した像であることを聞いて
 多磨郡の宅部村三光院に移し給わった
 延享四年(1747)九月、霊夢の告があって、荘厳寺に安置すると云う」
 という内容です。

『江戸名所図会』

荘厳寺境内 不動明王
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「幡ヶ谷不動明王 幡ケ谷村にあり。真言宗光明山荘厳寺に安置す。本尊不動明王の像は智証大師の作なり。毎年四月八日より同十八日まで内拝せしむ。相伝ふ、往古(そのかみ)智証大師江州三井寺を創建の時、彫刻の霊像なりといへり。天慶年間平将門東国に在りて逆威を震ひ、帝を悩まし奉る。

 故に平貞盛及び藤原秀郷等追討の宣旨を蒙り、東国に発向す。その時三井寺よりこの本尊を奉持して、陣中に移し奉り、軍(いくさ)の勝利を祈誓せしが、同三年庚子果して将門を討ち亡したりしにより、後この霊像を下野国小山郷(しもつけのくにをやまのがう)へ遷しまゐらす。

 然るに永禄の頃、武田信玄甲州に安座し奉りしを、又北条氏政奪ひ取りて、相州築井といへる所の寺院へ入れ奉りしを、つひに天正十八年四海安靖(あんせい)なるに及んで、当国多磨郡宅部(やけべ)の三光院に伝へありしを、霊夢の応あるを以つて、延享四年丁卯永く当寺に安置し奉るといへり。」(角川書店版中巻p548)

 このお不動道様、随分と所を変え、さまざまな経過を経ながら、三光院・西楽寺に伝えられました。なぜ、誰が、どのようにして三光院・西楽寺に伝えたのかは不明です。天正18年、北条氏との小田原合戦終結後、徳川家康の関東移封とともに、家康の直属の家臣が三光院の地に配属されてきています。また、江戸開府後は鷹狩りで主要な武将の来村も考えられます。

 西楽寺が三光院から渋谷区幡ヶ谷の荘厳寺に移った時期については、『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』ともに「延享四年」(1747)とします。一方で、三光院の留書記録は、「宝珠山西楽寺は、宝暦十一年(1761)ごろ、武蔵野新田開発のため、荘厳寺に菩提寺として引寺された」とします。この時期の新田開発に様々な状況があったのでしょう。

 その際、お不動様も遷され、現在は荘厳寺にまつられています。江戸名所図会では、「毎年四月八日より同十八日まで内拝」として多くの参拝がされ、まちを賑わしていた様子が伝えられます。その様子は現在の不動通りなどを歩いても実感します。現在は秘仏として開扉はないとのことです。

 一方、西楽寺の廃寺の跡には、西楽庵地蔵堂(カサ堂)が建立され、地域の村人の墓地となりました。墓地は、貯水池建設に伴い、狭山の霊性庵(嶺松庵)へ移されています。墓所合祀五輪塔之碑については両墓制(狭山霊性庵)をご覧下さい。

狭山霊性庵 遷墓五輪塔とその碑 クリックで大

 平将門(たいらのまさかど)の乱に関してはもう一つの「狭服山」(さふくやま)伝承があります。
 乱は、承平5年(935)、下総で発生しました。最初は一族間の争いでした。それが、天慶2年(938)、武蔵権守興世王(おきよおう)・介源経基(みなもとのつねもと)対足立郡司武蔵武芝の対立が生ずると、将門はこの調停に関与し、和睦させます。

 その際、将門が武蔵国府に向かうのに対して、敵対する源経基は比企郡「狭服山」に籠もったとされます。

 「狭服山」の位置については狭山丘陵を含め諸説あります。狭山丘陵の東端は後の鎌倉街道に接し、武蔵国府(現府中市)への道筋に当たります。東大和市域でも、何らかの動きがあったかも知れません。

 それにしても、いつ、誰が、どのようにして、西楽寺に不動明王像をおまつりしたのか
 新田開発で幡ヶ谷とはどんな関係があったのか・・・
 などなど、解明しなければならない問題が山積して残されています。

 今回は、長々と文章の多い紹介になりました。お疲れのこと、お許しください。

 (2018.10.09.記 文責・安島喜一)

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