熊野神社(東京都東大和市蔵敷)
熊野神社(東京都東大和市蔵敷)
位置 東大和市蔵敷一丁目419
祭神 伊弊諾(いざなぎ)・伊弊丹(いざなみ)尊
創建 不詳
内野家伝承・永禄年間(1558~1572)前後、
小島家伝承・天文2年(1533)、社殿の造営は寛永6年(1629)
規模 明治3年(1870)蔵敷村から韮山県に提出した報告書では
本社 間口一尺九寸 奥行一尺七寸
上屋 間口八尺 奥行八尺
建物 拝殿 間口二間三尺 奥行一丈
旧号 熊野大権現を明治元年に熊野大神と称替(『里正日誌』11p234)
村社 明治6年(1873)12月、村社となる。(『里正日誌』10p425)
参道
青梅街道(画像は青梅方面)のバス停蔵敷、「高札場」手前を丘陵側に向かって入ります。
正面に参道の鳥居と石段があります。石段の左側は内野家の稲荷社参道、右側は細い迂回路で、市立狭山緑地、鳥山へ向かいます。江戸時代には愛宕社の参道でもあったことが推定されます。鳥居の傍らに石碑があり、石段は明治15年(1882)4月、氏子中により整備されたことが刻まれています。
熊野神社全景
石段を登り切ると、熊野神社の全景です。
手前に献燈、狛犬、左奥に神輿庫、拝殿・本殿、右に末社。
社殿の裏と横に芋窪礫層の露出地があります。
明治初年までは拝殿と本殿が分かれていましたが、現在は一つの建物になっています。
熊野神社に関する地誌類の記録です。
『新編武藏風土記稿』
「熊野杜 除地、村の東の方にあり、祠は二尺四方、上屋九尺に二間半、村内の鎮守なり、」
『狭山之栞』
「熊野神社は村長内野氏の鬼門除に建立せしと。現在は村里の鎮守とす。同氏分家十五軒ありて此処より東西へ七軒宛住居す。神木杉の廻り一丈五寸、坂の半にあり。祭典毎年九月十九日。石の常夜灯高さ一丈五尺許り。台石に左の銘あり。」(後に記す、伊勢神宮献塔です)
『東大和市史資料編9信仰のすがたと造形』
「熊野神社は蔵敷にある小高い山に位置する。当社が、いつ創建されたかは不明であるが『狭山之栞』によれば、明治初期頃までに蔵敷村の村長であった内野氏の鬼門除けに建立され、当地区の鎮守として祀られるようになったと伝わる。また、内野家の伝えによると蔵敷一ー三六七に鎮座する巌島神社が永禄年間(一五五八~一五七二)前後の創立といわれるところから、同一時期に創建されたものと推測される。しかし、小島蔵之助氏方の古文書によれば、創建は天文二年(一五三三)とあり、社殿の造営は寛永六年(一六二九)十一月と記されている。
さらに、一説には修験が信仰の対象として勧請したとも伝わる。祭神に、伊弊諾(いざなぎ)・伊弊丹(いざなみ)の両尊を祀る。かつては熊野大権現と称されたが、明治元年(一八六八)熊野大神と改称され、同六年(一八七三)村社となった。例祭は九月十九日に行われる。
境内に末社として、稲荷神社を含む三社を祀る。」(『信仰のすがたと造形』p38)
明治3年(1870)韮山県へ提出した調書の熊野神社配置図
明治3年(1870)11月17日、蔵敷村は当時所属した韮山県に神社調書を提出しています(里正日誌11p231)。その配置図を見ると
・伊勢神宮献燈が石段下にある
・拝殿と本殿が分かれている
・祭神は伊弊諾(いざなぎ)・伊弊丹(いざなみ)尊
・勧請年記不詳
・摂社 厳島明神、愛宕社、御嶽大神、浅間大神、日枝大神、山祗大神
とされています。
「明治4年(1871)社寺調」の際の書き上げ(『里正日誌』12p41)
明治4年(1871)1月7日、蔵敷村は当時所属した韮山県に「社地其外取調帳」を提出しています。
その概要です。
・社地3反(900坪・約2700㎡)、本社など敷地3畝15歩(105坪・約350㎡)
・杉、檜、欖(らん)、槻(欅) など107本
当時から位置は変化していません。周囲を杉やヒノキ、ケヤキなどで取り囲まれていたことがわかります。
欖(らん)については調査中です。
石灯籠
伊勢神宮献燈は明治3年(1870)に、伊勢詣でを計画していた講中が、江戸から明治に時代が変わったことを受け、伊勢詣でを中止して造立しています。
明治初年までは石段下にありました。別に記します。
伊勢神宮献燈の前に「力石」が保存されています。『東大和のよもやまばなし』に「力石」が伝えられます。別に記します。
◎狛犬は昭和17年(1942)内野録太郎氏他が寄贈しています。
芋窪礫層
社殿は丘陵の一部を平らにして設けられているため、建物を囲むように丘陵部が残されています。
そこに手で触ると崩れそうな小石が見られます。これは古多摩川が運んだ芋窪礫層が露出しているものです。
狭山丘陵の形成史、地質の上から多くの関心が寄せられています。別に記します。
(2018.10.21.記)
東大和のよもやまばなし・力石、雨乞い、子供みこしのこと
モニュメント・力石
芋窪礫層