高木の塩釜様(東大和のよもやまばなし7)
高木の塩釜様(東大和のよもやまばなし7)
「お産は大変だったんですね」
「今では、病院でなさるでしょう・・・」
「神様にお祈りするのもよくわかります」
「でも、どうして、高木神社と一緒に塩釜様がおまつりされているのですか」
「・・・・・」
高木神社本殿に向って右隣、塩釜神社の前です。
『東大和のよもやまばなし』が丁寧に説明してくれます。
「塩釜神社は総本社が宮城県にあって、昔から安産守護の神様として、広く知られていますが、高木村の塩釜神社はその分社にあたります。
江戸の末ごろ、高木村の天領名主に尾崎金左衛門という人がおりました。医師も助産婦もいないころですから、お産のために赤子や母親が死ぬことがあり、お産といえば家族みんなの心配ごとでもあったのです。
金左衛門は、そのことで深く心を痛めて、遠路はるばる旅をして、陸前国塩釜村の塩釜神社へ安産のお護礼(おまもりふだ)をいただきに行ってきました。そしてお護礼を屋敷神としてお祀りしておりました。
この旅には、蔵敷村の小嶋蔵之助さんのご先祖も同行されたと小嶋家では言い伝えられ、お護礼が表具(ひょうぐ)として残っております。
やがて時代が変り、明治になると、金左衛門は
「一軒の家には、長い間に栄枯盛衰があり、後の世までお祀りできるかどうかわからぬ。」と考えて、屋敷神を高木神社の境内に移しました。
記録によると「明治十年(1877)四月十日、尉殿神社(じょうどのじんじゃ 今の高木神社)の隣に塩釜神社を勧請す。」とあります。
これから後、金左衛門の屋敷神は高木村の神社として管理されることになりました。
高木村に塩釜様が祀られるようになると、このあたり五里四方から人びとが参詣にくるようになりました。嫁たちは妊娠すると塩釜様へお参りして、お護礼、お饌米(おせんまい)、お灯明に使ったろうそく、麻ひもなどをいただいて帰ります。無事に安産すると、お礼参りをして絵馬を奉納しました。(p16~17 一部省略)
とあります。
文中「金左衛門の屋敷神は高木村の神社として管理され」たのは、金左衛門さんが屋敷神をうつした同じ年の明治10年(1877)5月に、神奈川県に対して、尉殿神社から塩釜神社の設立願が出されていますので、この時期と考えられます。
現在、塩釜神社の御札は毎月15日に札場を開いて対応しています。
塩釜講については別に書きます。
(2019.02.02.記 文責・安島喜一)
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