村山貯水池(多摩湖)の用地買収
村山貯水池(多摩湖)の用地買収
1買収価格の提示
大正3年(1914)1月10日、用地測量のための詰め所が設置されると、地元の村人は素早く反応し、1月22日、移転地住民大会を開き、共同して対応することを決めました。
東京市は、円滑な事務の実施を図るためか、2月23日、地元の有力者に、水道拡張工事に関する事務の委嘱をします。恐らく、この人達に地価の情報が入ったのでしょう、9月21日、有力者は地元有志77名と共に、東京市に出頭して、事情の陳述をします。
後に東京市の助役が「市ノ買収評価ガ彼等ノ予想ノ三分ノ一内外ニ過ギザルコト明白ト為ルニ及ンデ、彼等ハ忽チ売却反対ノ急先鋒ト変ジタレバナリ」と答えています。
このような経過を経て、東京市は、翌、大正4年(1915)2月15日 村山貯水池の用地買収価格を発表しました。
これを1坪当たりの金額にすると次の通りでした。
銭
山林・原野 43・35
畑 73・66
田 87・83
墓地 1円36・00
宅地 1円60・00
東大和市郷土博物館では、買収単価を次のように比較しています。
タバコ(ゴールデンバット)20箱 1円 明治40年
特級酒 1升 1円 大正元年
東京大学授業料 50円 明治43年
2土地売り渡し拒絶
買収価格の発表により、用地買収は直ちに開始されたようです。水道拡張事業報告よる買収の概況に次のように記されています。
「大正四年二月十五日ヨリ村山貯水池敷地(北多摩郡芋窪村外五ヶ村)ノ買収協議ニ着手セシモ同土地所有者等ハ本市ノ決定セル土地買収価格ヲ不相当ナリトシシハシハ集会ヲナシ、或ハ土地買収価格ノ値上ケヲ要求シ、或ハ土地買収不応諾ノ申シ合ワセヲナシ、其他種々ノ方法ヲ以テ一時ハ熾烈ナル反対運動ヲ為セシモ、当務吏員ハ絶ヘス各戸ヲ訪問シテ買収価格ノ相当ナルト、ソノ目的ノ公益的ナルヲ説キ速カニ協議ニ応セラレンコトヲ懇談説示セシカハ漸次協議ニ応諾セラレ左表(表7)ノ成績ヲ示スニ至レルモ、村山貯水池敷地全部ノ買収ヲ為スニハナヲ多少ノ時日ヲ要スヘシ。」
我々世襲ノ財産ヲ奪取セラルルカ(承諾拒絶)
村人たちは長年住み慣れた古村を離れ、生活の基盤を失うこと、移転、生活再建に直面しました。提示された地価では移転先の用地買い換えが思わしくなく、多くの人が納得できずに、次のような承諾書調印拒絶書を提出するに至ります。
承諾書調印拒絶書
「東京市水道第二期拡張ニ付、高木村外五カ村組合各村移住民及地主一同ハ、昨大正三年九月市当局ノ意志トシテ貯水池敷地買収価格ノ二六新聞ニ顕ルルヤ、当時売買格ノ半額ニ達セス、其ノ低廉ナルニ驚キ市役所ニ向テ陳情セシモ要領ヲ得ス、故ニ、同月二十二日移住民約弐百名地主四百名余会同シ、買収価格ハ不当ノ甚シキモノナルヲ以テ之ニ応セサルハ勿論、該用地ハ他へ変更ヲ期セント決議シ、直ニ市長へ上申シタルニ、旧臘、埼玉県入間郡山口村地内ヲ測量セシヲ目撃シ、我々ハ先祖伝来ノ土地ニ離ルルノ悲惨ニ遭遇セサルニ至レリト、稍ニ安堵セシニ、今回、上水道用地トシテ各所有者ニ配布セシメ、之カ調印ヲ要請セラル此ノ算出ニヨレハ、サキニ低廉ナリトシ陳情セシ価格ヲ尚低減セシモノニシテ、吃驚又吃驚、如何ニ市当局ハ我々地主ヲ愚弄セラルル力、将ニ市ハ公共ノ為メナルヲ口実ニ、我々世襲ノ財産ヲ奪取セラルルカ、酷タ判断ニ苦メリ是ニ於テ承諾書ヲ拒絶候也
大正四年二月二十八日」
(大和町史p438 句読点は筆者が挿入)
東京市の事業の推進(水道工事日誌から)
村民の反対を前に東京市は着々と事業を進める決定をします。
・大正四年四月六日、市参事会ハ村山貯水池敷地(芋窪村外四ケ村)土地追加買収案ヲ可決ス
・大正四年四月十三日、東村山村字回田土地ノ買収案ヲ可決ス
・大正四年六月十五日、市参事会ハ村山貯水池敷地ニ於ケル家屋ソノ他物件ノ移転料金協議着手ノ件ニ同意セリ
・大正四年七月二十一日、市参事会ハ村山貯水池敷地ノ丈量増加買収案ヲ可決ス
この過程で、何らかの事情変更があったのか、大正4年(1915)夏、一挙に土地売り渡しの承諾が行われました。
3急速な承諾
大正4年の2月は、用地買収価格の発表、買収交渉の開始、反対運動の高まり、と激しく動きます。しかし、その後は急速に事情は変化し、下の表3(移転承諾件数及移転料金表)のような経過を辿ります。
大正4年7月に194件、8月に41件、9月に14件と、この3ヶ月間に249件、約86%が承諾しています。
大正4年2月28日に「承諾書調印拒絶書」を提出してから5ヶ月、事態が急速に変化したことを伝えます。この用地買収の結果について、東大和市史は次のように記しています。
「なお、これだけの反対運動をしたにもかかわらず、市当局の壁は厚く、村山貯水池敷地に限ってみれば当初決定された買収価格で総て買収が成立している。
山林は反当り(三〇〇坪)一三〇円五銭、 畑は二二一円、 田は二六三円五〇銭である。宅地は坪当り一円六〇銭であった。
大正五年七月四日に価格決定がされた導水路の村山境線用地の狭山、清水の場合は、山林反当り(三〇〇坪)二四三円八○銭、畑、二四四円八○銭、宅地は坪当り約一円八七銭であった。
価格決定が、後になるほど価格が高くなり、大正七年十月八日に決定し買収が成立している武蔵野村の境浄水場材料運搬用地などは、反当り、山林一四〇七円三〇銭、畑が二一〇一円八○銭となっている。」(p297)
承諾の背景
急速な変化の背景を明確に伝える資料は現在のところ知られません。推察ですが、次の二つのことが考えられます。
①村山貯水池(多摩湖)の建設(測量)で紹介した、内堀小十郎氏の「湖底に沈んだふるさと」に記されている
「村の顔役や青年団の幹部が毎晩やってくる。ご機嫌をうかがいながら自分の所有している土地や物件の状況、その金額の概算などを聞いて帰る。ともかく、ろくな収入もない時代に土地代金や移転料がたくさんもらえるのだから村中は大喜び、あまり反対者もなく、ひたすらその成り行きを待ちあぐんでいた。」空気が反対と共にあったこと。
②大正4年7月17日、東京市会のやりとりの中に
「隣接ノ埼玉県山口村ハ、候補地トシテ多少可能性ヲ有スルガ故ニ、村山ニ対スル牽制策ヲ兼ネ、此地ヲ測量シタルニ、村山ニ及バザルニトヲ確メタリ。然レドモ此測量ハ予期ニ違ハズ、村山ノ買収交渉ニ効果ヲ現ルシタルヲ以テ、終ニ山口村ヲ放棄した」と説明されているように「牽制策」が功を奏したこと。
いずれも、当時の微妙な空気を伝えます。しかし、最終的には大正8年(1919)12月25日、7名の方々が、現在で云う、土地収用法の適用を受けて買収されています。
移転については次に続けます。
(2019.01.08.文責・安島喜一)
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