村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の食生活
村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の食生活
村山貯水池の湖底に沈んだ村々は古代の住居址を残します。また、寺社は中世の創建を伝えます。
さらに、南麓の地域には僅かの水田しかなかったのに比し、この地では、比較的多くの水田(畑53町、水田40町・約40万平方メートル)を営んでいました。
しかし、大きな谷底集落であることから耕地も住宅地も段階状で、日照にも恵まれない面がありました。
食生活
湖底に沈んだ地域だけでなく、南麓の村もほぼ同じ傾向であったと考えられますが、生活はきわめて質素でした。日常食として、米のご飯は食べられませんでした。その様子を『多摩湖の歴史』は次のように記します。
「物日など特別の日以外は、毎日のように麦めしに自家で獲れた野菜の煮物など、ほとんど「あるものぐい」で間に合わせることが多かったようである。魚類を食べることは、ごくまれであった。
毎日の献立はおよそ次の通りであった。
〔朝〕麦めし・味噌汁・おしんこ
〔昼〕朝食の残りもの
〔晩〕麦めし・味噌汁・おしんこ・野菜の煮物、たまに塩魚または干物。
物日にはごちそうを食べた。例えば恵比寿講の日の献立の一例は次のようなものだった。
〔朝〕赤飯(ささげ豆入れ)・けんちん汁(豆腐・人参・大根・里いも・ごぼうを油でいため、味噌と醤油で味をつける)、尾頭つきの塩さんま。
〔昼〕手打うどん・つけ汁(実なし)・かて(薬味のことでほうれん草・ねぎ)(p249)
主食
米だけの飯をふんだんに食べられる人は、湖底の村ではまったくいなかった。日常食べるのは麦めし、またはひきわり飯といわれるもので、大麦を石臼でひいて皮を取り去り、一粒を四つくらいに細かく割ったものを「ひきわり」といって、ほとんどの家がこれを常食としていた。ひきわりの中に、二~三割の米を混ぜて食べることもあった。
また「ばくめし」というのもよく食べた。皮をとった丸麦(大麦)を、長時間煮て、お粥のようにやわらかく炊いた飯を「ばくめし」といっていた。丸麦は長く煮れば煮るほど甘味が出ておいしくなった。これに味噌汁をかけたり、たまには千六本に切った大根を炊き込み、ごま味噌汁をかけて食べる事もあった。ばくめしは非常においしかったが、忙しい農家にとっては、調理に時間がかかりすぎるので、毎日食べるわけにはいかなかった。
谷戸には水田があり、米を作っていた家は多かったが、現金収入がきわめて少なかったので、収穫の大半は売ってしまった。米だけの飯は、盆や正月、祭の日など、年に何度か食べるぐらいだった。米めしは、「オゴリ」と称して大ごちそうの部類だった。
ひきわりに粟(あわ)をまぜて食べることが一般的だった。粟だけの飯も食べたことがあるが、軽すぎてたよりなかった。
穀類は、内堀の「みせ」にも売っていたが、当座のまにあわせ以外は、少しでも安値の所沢で買うことが多かったようである。粟も所沢から二俵ぐらいずつ買ってきたようである。(内堀の店については「馬方勝っあん」を参照下さい)
稗(ひえ)を栽培して食べる家もあったが、稗だけの飯はとてもまずくて、食べられたものではなかったという。飯の量をふやすために、ひきわりめしが炊き上る直前に、稗をパラパラふり込んでまぜたが、とてもまずかった。また、稗は所沢で購入し、大岱(おんた 東村山市)の水車でついてもらった。稗のつき賃は高いので、麦だと偽ってついてもらったこともあった。ともかく稗は評判が悪い。
手打うどんはたいそうなごちそうで、ふだんはめったに作らない。物日にはよく煮込みうどんにして食べた。なお原料の粉は、わずかに栽培していた小麦を、苦労して石臼でひいたり、水車のある製粉所で粉にしたが、それでは足りなくて外から買うことが多かった。市販の小麦粉は色が白くてのめっこい(なめらか)が、味の点では地粉に劣った。
その他主食を補い、また副食にもなる食物として、煮だんご(すいとん)や、うでまんじゅう(ゆでて作るまんじゅう)、やきもち(たらしもちともいって、小麦粉をまるめて平らにし、鉄製のほうろくで両面を焼き、醤油と砂糖で昧をつける)、だんご汁(大麦の粉で作っただんごを煮汁に落す)などを作った。
そばは自家用に少しばかり栽培した家があって、めんにしたり、そばがきにして食べた。これもごちそうのうちである。
サツマイモはたくさんとれたので、毎日のようにゆでて食べていた。大釜で一度にゆでて三日位もたせた。子供達の学校の弁当はほとんどサツマイモで、二本ぐらい風呂敷につつんで腰につけて持っていった。そのほか生のまま薄切りにして油をひいたほうろくで焼き、おやつにもした。
またサツマダンゴも作った。これは切干ししたサツマイモを石臼でひいて粉にし、水でこねて蒸篭(せいろ)でむしたもので団子にまるめて黒砂糖や醤油をつけて食べた。(p250~252)
副食物
湖底の村には魚屋は一軒もなく、みんな時々やってくる行商人から買った。それらは塩鮭・塩ます・小女子(こうなご)・身欠きにしんと、ほかには干物などがあった。正月や振舞で多量に必要な時は、所沢か岩崎の魚屋でまとめて仕入れた。
歳の暮には手車を引いて所沢に行き、塩のよくきいた鮭かますやますを、叺(かます)に入れて何尾も買ってきた。これを六月頃まで、物日の折々に切って食べていた。
尾頭つきの魚としては鯛などは思いもよらぬことで、さんまやさばを使っていた。また、めざしは値が比較的安かったので、夕食のおかずにたまに出た。身欠にしんも砂糖醤油で甘辛く煮つけてよく食べた。干した小女子(こうなご)もほうろくで炊って醤油で辛く味つけしておき、重宝につかわれた。そのほか、本来は肥料にすべきにしんのしめ粕を、ほうろくで炒って食べた人もいた。動物性の蛋白質はなんといっても不足していたから。
うなぎ・どじょう・たにし(つぶ)・蛙も食用に供された。堂の池には、うなぎが沢山いた。田に水をひいたあと、水の無くなった池に行き、灰ざるですくってつかまえた。これを煮たり、焼いたりして食べた。中には、一メートルもあるような大きいのもいた。大きさとしては、「百匁三匹が蒲焼に丁度いい」などと言っていた。
こさ池には、人間の手のひらほどのひきがえる(「おひきがえる」といった)が沢山棲息していた。一度に五匹から一〇匹ぐらいつかまえて、その場で皮をむき、はらわたを取りのぞいて肉を持ちかえる。これをいろりで焼き、醤油をつけて食べた。田んぼには、赤黒い色をした、小さな「赤蛙」がいた。赤蛙はまことに味が良かったので、東京の料理屋が買いに来た。赤蛙は「疳」(かん)の薬になるといわれていた。
たにしは田んぼで沢山とってきて、殻ごと茄でて身を出し、醤油で味をつけ佃煮風にした。
肉類はほとんど食べていなかったといってよいほど少なかった。鶏肉・鶏卵は、鶏を飼っている家では食べていたが、わざわざ買って食べるようなことはなかった。豚肉は狭山の竹内ひでさんという仲買人が、豚を集めに来る時ついでに持ってきたが、ごくたまに買って食べる程度だった。
山で「ひっくくり」を仕掛けて兎をつかまえ、毛皮を売ったり、肉を食用にした人もいた。」(p252~253)
当時、市民の方々と一緒になって、移転された方々の訥々と話すお話を聞きましたが、まさに胸に迫る思いでした。
住宅については次に記します。
(2019.01.15.記 文責・安島喜一)
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