村が迎えた明治元年
村が迎えた明治元年
明治を迎える村は大きな緊張に包まれていました。東大和市域の村々の明治元年の出来事を追ってみます。
慶応4年(1868)1月です。
「1月1日、門松を立つる事を止(とど)め、年礼を休す」
と隣接中藤村に残された『指田日記』は書き出します。
門松を立てて新年を祝うことを止めなくてはならないような物騒な空気が流れていました。
前年の暮れのことです。
・慶応3年12月20日、東大和市域周辺を治めていた代官・江川太郎左衛門役所から、江戸不安定のため、農兵を江戸役所まで出張させよとの命令が下りました。しかし、村々にも徒党を組んだ悪徒が立ち回る気配があり、また、農兵設置の趣旨からも、村では反対でした。なんとか回避するように名主一同が嘆願し、23日「御免願」を提出しました。江川役所は立腹、交渉に当たっていた野口村(現・東村山市)、後ヶ谷村(現・東大和市)の名主を宿預けにしました。(『里正日誌』9p421~422)
・12月23日、江戸城二の丸が焼失します。
・12月24日、幕府が江戸に戒厳令をしきます。
・12月25日、薩摩藩江戸藩邸(三田)焼失事件が起こりました。以前に薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩所を襲撃したことにより、庄内藩が反発して焼き討ちをした事件です。
これらの動きは東大和市域周辺にも不穏な空気を生みました。東大和市の村々は警戒のため、農兵が竹槍を持って見回りすることになりました。
・そのようなことから、名主から門松を立てることの禁止が伝えられていました。
・1月3日、鳥羽・伏見の戦いが起こります。旧幕府・会津・桑名と薩摩・長州軍が衝突します。旧幕府側は敗北しました。
戊辰戦争が始まります。
2月です。
・2月7日、歩兵14名、芋久保村に宿す
・2月8日、歩兵500名、八王子に宿す
と『指田日記』は記します。甲州裏街道と云われた青梅街道と甲州街道の移動です。ルートから旧幕府側の高島藩諏訪忠誠の歩兵隊や高遠藩主内藤頼直の歩兵一行と思われます。
高島藩の歩兵については、2月20日に内藤新宿問屋所から小川新田、廻り田村、中藤村に触れが出されています。180人が2月21日に出立するので、人馬の継ぎ立てに、内藤新宿まで人足を出せ、とするものです。同様の触れが東大和市域の村々にもあったのかどうかは不明です。これらからすると、江戸詰の歩兵達が分散して五月雨的に江戸を退去したことが推測されます。
そして、村人はさぞ驚いたと思われますが、早くも3月12日に、2月の退去とは立場を変えて「官軍御先鋒御用係」と称した新政府軍の高島・高遠両藩役人が、府中宿への人足差し出しを命じています。宛先には、芋窪村、蔵敷村、高木村が含まれています。
・2月12日、長年、幕府代官を務めてきた江川英武が、新政府の橋本、柳原の勅使から、支配地絵図、石高帳、人別帳をもって桑名宿へ出頭するように「御用召」を受けています。この前後に新政府への恭順を示したものと推測されます。(『里正日誌』10p59~63)。
3月です。
・3月1日、近藤勇が東征軍の東山道先鋒を迎撃するため、名前を「大久保剛」または「大久保大和」、土方歳三は「内藤隼人」と変名し、勝海舟から命名された「甲州鎮撫隊」(甲陽鎮撫隊)をひきいて、江戸を立ちました。
将軍御内意手許金5000両の軍用金、大砲2門、小銃500挺、新選組隊士20余名の軍勢です。運搬の仕事に内藤新宿へ狭山丘陵周辺の村人が助郷に駆り出されています。
甲州鎮撫隊は江戸から甲州街道を進み、3月1日は内藤新宿に泊まりました。3月2日は、府中に一泊。3月3日、日野宿名主佐藤彦五郎家に立ち寄り、同宿泊。この日、日野宿周辺の天然理心流の若者達が同行を願い出て、名主佐藤彦五郎はじめ、30余名が「春日隊」を編成して合流します。
・3月5日、甲州都留郡猿嶋宿着。
・3月6日、勝沼で甲陽鎮撫隊と東山道分遣隊が対戦、甲陽鎮撫隊は敗れました。
・3月13~14日、勝海舟・西郷隆盛会談が行われ、江戸城明け渡し、総攻撃中止が決まりました。
・3月14日、京都で、五箇条の御誓文が示されました。
3月15日、新政府が五傍の掲示(太政官の名で出された5枚の高札)を行いました。
・3月19日、江川太郎左衛門支配下の村は、東征軍の人馬継立のため、川崎宿の助郷、助郷役負担を命ぜられます。名主一同、この減免に追われます。
・3月26日、勝楽寺村の城山(現・山口貯水池の湖底)に、博徒・貧民およそ100人ほどが屯集して、炊き出し、酒を求めました。中には鉄砲持参の者も居ました。周辺村の農兵が出動して4月4日、鎮圧しました。(『里正日誌』10p70~72)別に記します。
4月・閏4月です。
・4月7日、新政府が藩主・家臣に対して国元在所へ復帰する旨を命令します。
・4月25日、近藤勇が板橋庚申塚で処刑されます。
・閏4月17日、青梅橋と小川の間にて、芋久保村の縞買い、追剥に出合い、 此の日、此の辺の農兵の者仕度いたし出たる所なれば、追いかけ搦め捕りて、蔵敷前の神送り塚にて、砂川村と芋久保村の人、首を切り其処に埋む『指田日記』。
『里正日誌』(10p77~78)に詳細な記録が残ります。「強盗二人打ち殺しのこと」にまとめました。
・閏4月20日~7月14日、南東北の要地白河小峰城(白河城)を巡る奥羽越列藩同盟側(仙台藩・会津藩・旧幕府歩兵隊・米沢藩・棚倉藩など)と新政府軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩)との戦い=白河口の戦い。ここで、五日市憲法草案の作成者で、後に奈良橋村(現・東大和市奈良橋)に来る千葉卓三郎(17歳)が参戦。敗北しています。
5月です。
・5月1日、振武軍が田無村の西光寺に本陣を構えます。
振武軍は、慶喜追討令、寛永寺への蟄居、東征軍の江戸城への入城に反対する旧幕府勢力で構成された「彰義隊」の一部です。
彰義隊内部では、上野(江戸市中)を戦場とする主戦派と江戸郊外で戦うべきとの2派に分かれていました。江戸郊外戦を主張する渋沢成一郎らが独自に反新政府活動を展開することを告げて、彰義隊を脱退して「振武軍」を組織しました。
・5月3日、振武軍から、東大和周辺の村々の代表が、田無の屯所に呼び出され、軍資金を要求されます。
村人達は悩んだようですが、『里正日誌』(10p83~86)では、次のように集めています。
田無組合村 730両
所沢組合村 726両
拝島組合村 500両余
扇町屋組合村外 720両
日野組合村 5~600両
府中組合村 5~600両
合計およそ3400~500両としています。(合計金額は村を加算しても合いません)
・5月12日、振武軍は田無から東大和地域を通って箱根ヶ崎に至ります。箱根ヶ崎には15日まで滞留しました。
・5月15日朝、上野にたてこもる彰義隊が官軍に攻撃されたとの報を受け、直ちに、箱根ヶ崎から上野に向かいます。
途中、田無で敗走してきた彰義隊と合隊し、その後は、二手に分かれて一隊は東大和を通り扇町屋へ、一隊は所沢から扇町屋に至り、飯能の能仁寺に立てこもりました。
・5月23日、川越藩(400人)を先頭に官軍2000人の攻撃を受け、激戦の結果能仁寺は炎上し、振武軍は敗れました。
「飯能戦争」といわれます。 飯能の村は焼かれ、農民にも死者が出、多くの兵は敗走しました。
・5月24日、徳川家が駿河国府中に移封されました。70万石 駿河一円とその他は遠江、陸奥両国とします。
東大和市には徳川家臣の一人が来村して、高木の明楽寺に住み、寺子屋の師匠や番組会所の事務を執ったりして、「比翼塚」の伝承を残しています。比翼塚と古文書
7月以降
・7月17日、「江戸」を「東京」と改称しました。
・8月10日、東大和市域の村々に、「東京と改称 詔」が届けられました。
江川太郎左衛門役所から「・・・、御誓文の御趣旨意篤と奉戴し、いたずらに奢侈の風習に慣れ、再び前日の繁栄に立ち戻ることを希望し、一家一身覚悟いたさないでは遂に活計を失うことになるので、向後、銘々相当の職業を営み、諸品精巧、物産盛りに成り行き、自然永久の繁栄を失わぬよう格段の心がけをすることが肝要」との同日付け文書が付されています。(『里正日誌』10p140~141)
・9月8日、「慶応」が「明治」と改元されました。
こうして、東大和市域の村々は明治を迎えました。
・11月3日、蔵敷村名主が早速、新しい高札の書き換えを願い出ました。(里正日誌10p165、168)
・12月19日、新しい高札が届きました。五箇条の御誓文を写しとっていた名主内野氏は、どのような新しい周知があるのか、ドキドキして接し、思わず、ため息をついたと伝えられます。高札の書き換え
次に続けます。
(2019.02.25.記 文責・安島喜一)