建設ブーム(村山貯水池建設工事)

建設ブーム(村山貯水池建設工事)

 大正5年(1916)5月、村山貯水池の建設工事が着工されます。村は活気づきました。不況から働く場、現金収入を得る場に乏しかった村人たちにとって格好の働き場でした。現在のダム工事とは違い、当時の工法は人力による工事が多く、大人だけでなく、子供はムシロ敷き、女衆はタコつきに出ました。

狭山丘陵の谷に堤防を築き、取水塔から東京都内に飲料水を送るため、飲料水を溜める工事
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多摩組の半天
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 作業員の就業システムもできました。下貯水池に入山組(東村山・廻田)、上貯水池に多摩組(東大和・芋窪)が事務所を設けて、東京市と作業員の就業について請負の契約を交わしました。大和村の人々はこれらの組を通じて「デヅラ(出面)」をもらって仕事に就きました。多摩組の半天が残されていますが、モダンで、胴回りに大きくローマ字で「YAMATOMURA」と印されています。

仕事は

・「タコつき」 蒸気で動くスチームローラが回れないところを人の手で固めました。
  紐で中央に石を結んで5~6人で引っ張り上げては下ろす仕事です。ローラよりも堅固だったと云われます。
・「ムシロ敷」堰堤(堤防)の工事にトロッコで運んだ土をならすのに、む しろを敷きました。  
・「オロシ」 軽便鉄道から荷を下ろす役です。
・「トロッコ運搬」10台つながったトロッコで粘土や土砂を運搬。その一台一台に一人ずつつきました。
・「粘土採り」堰堤(堤防)の基礎は粘土に砂利を混ぜて突き固めました。その粘土を採集にあたりました。

女衆の仕事 タコつき
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  粘土の採集場所は
  ・上堰堤 武蔵村山市神明地区(丸山)、東大和市芋窪
  ・下堰堤 東村山市野口
 でした。これらの地から工事現場まで馬やトロッコで運ばれました。

労賃
 工事を進める方も、働く村人たちも関心が深かったのが労賃でした。東大和市史資料編2では次のように記します。(一部省略)

 「一九一五年(大正四)なかばごろから貯水池用地内の民家の移転がはじまるのであるが、その当時の一般的な日雇い労賃は一三銭ぐらいだったようである。

 ・・・大正四年から七年ごろまでの測量調査員の日当が五〇銭、堰堤工事、掘削工事などの一般土木工事は、はじめ五〇銭ぐらいだったのが大正六年ごろは約六〇銭、七年ごろは約七〇銭、あるいは約八〇銭と、その工事内容により多少の差はみられる。

 一九一七年(大正六)十月一日からの上堰堤工事に例をとると、第一次起工案が六年十月一日から大正十年二月九日で、延べ一六万三〇〇〇人、その賃金一八万六千九五円で平均日当一円一四銭である。

村山貯水池賃金の概要
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 ・・・その当時の一般のいわゆる日傭取(ひようとり=日雇)の日当も一三銭だったのが、貯水池工事にかかる前の移転の仕事の手間賃が二五銭になり、貯水池工事が始まるとその賃金に合わせて五〇銭になり一円になったと伝えられている。

 村内の一般の労賃も、貯水池工事の労賃が普通は基準になったようである。当時の新聞記事には、たびたび、労賃が低いので作業員が集まらないことや、賃上げ要求のことが報じられている。いずれにしても、労賃は、当時の一般の勤め人より低かったことは事実のようである。」(p46~47)

 小学生には「むしろ敷き」のアルバイトに出るものもいました。堰堤の土ならしにムシロを敷く仕事で、話す人によって違いますが、1日20銭から30銭~40銭になったといいます。
 「山、一坪の値段と子どもの日当が同じだなんぞ、どこか狂ってるべえ・・・。」
 と、話す古老も居ました。

工事ブームはあっという間に去った

 現金収入の乏しい当時、貯水池工事は村人達に貴重な稼ぎの場となりました。
 星野晴一氏は、作業員の日当は、一般の日当が13銭だったのが、移転の時は25銭、貯水池工事が始まると50銭になり、大正9年には、1円80銭、重労働の最高は3円25銭、コマワリでは5~6円になったとします。一種のブームがやってきます。『大和町史』は次のように記します。

大正4年(1915)~大正13年(1924)までの村の予算
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 「第一次大戦後の不況下に、村民は貯水池の土方仕事に出ることによって思いがけぬ現金収入を得た。中藤に蕎麦屋や小料理屋が出来て、貯水池ブームの人達をひきつけた。村の人達の服装も食物も、貯水池建設を期に変わって来た。カレーライスが村に入って来たのも、この時期である。」

 しかし、一時の建設ブームはそんなに長くは続きませんでした。ブームは去り、厳しい局面を迎えたようです。『大和町史』は続けます。
 「竣エト同時ニ夢想ニ引惑セラレタルカノ如ク荘然トシテ正業シ得難ク徒ニ都人士散策スルヲ瞥見シテ都会ヲ羨望シ青年男女ハ郷土ヲ去リ村ノ将来転寒心ニ堪ヘサリキ」と嘆かれるありさまに立ち至った。貯水池建設にともなう好況は、しょせん一時的なものにすぎなかった。」(『大和町史』p444)

合併・大和村となる

 東大和市域の村々に一時的な貯水池ブームが起きた頃、一方では、米価高騰、米騒動の高まる中で、第一次世界大戦が終了しましたが、村の財政は80%近くを教育費が占め財政困窮状況にありました。

従来の村は大字となって、区域はそのまま残された
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 当時の村は、縦に細長い「江戸時代からの村」と「高木他五ヵ村組合村」との二重行政が続いていました。小学校費に大部分の予算を費やし、借金も多くなり、政争が激しかったと伝えられます。
 大正8年(1919)11月1日、これらを解消し、新たな出発を期して、村々は合併し、「大和村」が発足しました。次ぎに続けます。引用した資料はいずれも東大和市から許可を得ています。

 (2019.03.30.記 文責・安島喜一)

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