杉本の里

杉本の里の位置図 村山下貯水池 クリックで大

 村山貯水池の下堰堤近くに沈んだ由緒ある集落です。下図の内堀の里と上宅部の里の間に位置していました。戸数は少ないのですが、内堀、上宅部と合わせて、宅部(やけべ)という、古代・中世からの特色ある地域と歴史を積み重ねています。その中核となる人々が活動しました。また、その人々は三光院や氷川神社など上宅部の里の区域内の社寺建設に関わっています。

杉本の里の位置図 内堀、上宅部の里の間で、小沢池を含む地域
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 明治8年(1875)、「内堀地域の宅部村」と「杉本の里と丘陵の南麓を含む後ヶ谷村」が合併して「狭山村」が誕生します。その背景は、地租改正に当たって、地番を定めるのに、内堀と杉本の里の地域が「田、畑、山林、民戸、みな、ことごとく混錯」の状況で、一緒になって新しく地番を創設することが必要であったことが一つの原因でした。

 以上から、一応の地域的区分をしますが、内堀、杉本、上宅部を通じて地域社会が形成されていたことが考えられます。宅部については別にまとめます。

杉本の里の資料

 杉本の里については、地元の名主で、狭山丘陵一帯の地誌を探った杉本林志氏が『狭山之栞』に詳しく記しています。

 狭山村之内宅部  戸数十二軒としてまとめています。

屯倉跡

 屯倉の跡があったと記します。

 「中畑、四畝六歩(120~130㎡)、杉本氏の宅地続きにあった。往古、此地にも屯倉(みやけ)があったので屯倉部(みやけべ)と云ったが、いつの頃よりか宅部と呼ぶようになった。旧地頭・逸見氏の郷藏敷とも云うが、はっきりしない。地頭・逸見氏が幕府に土地を返した後、延宝五年(1677)、再検地のときに、代官・設樂孫兵衛の蔵屋敷とした。」

 古代の屯倉(みやけ)との関連を記しますが、明確ではありません。敷地も小さすぎます。宅部については別のページに記します。

宝珠山西樂庵地藏堂

 地蔵堂がありました。杉本家の代々の墓地でもありました。本尊の延命地蔵尊は、現在は幡ヶ谷の荘嚴寺(渋谷区)へ移っています。このお地蔵さん、別の資料で平将門や北条氏政に関する話題がともない、注目です。長くなりますから、別に記します。
  ここでは、『狭山之栞』の記事を紹介します。

「宅部山三光院の末寺にして西樂寺地蔵院と号し
本尊延命地藏尊は長五尺、脇士不動尊は長四尺であったが、
故ありて、幡ヶ谷村荘嚴寺へ移し、廃寺となった跡に、一宇を建て西樂庵地藏堂と呼ぶ。
杉本家の持にて代々の墓あり。
西樂庵は狭山六地藏の第二番である。」

古碑(板碑)

 西樂庵には次の板碑が保存されていました。

『狭山之栞』p35
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上図、明徳4年(1393)、永享10年(1438)
この他、元応元年(1319)、延文4年(1359)、貞治4年(1365)、応安2年(1369)、応永19年(1412)の板碑が保存されていました。

 なお、この他、次の板碑が発掘されて、独特の伝承を残します。

『狭山之栞』p36
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  「この碑、文化十酉年(1813)十月、字西楽寺の畑より出し、井戸の端に置き、釣瓶の台にしていた。ところが、崇りがあったので、常覚院俊光法印を招請して、熊野神として祭った。」(正和2年・1313)

 この地域では、板碑が神としてまつられていたことを語ります。現在も大切に保存されています。

小沢池

 杉本に属する地に大きな田用水の池がありました。注目はその周辺が幕府の御用林であったことと、その御用林が元文年間(1736~1741)に村人に払い下げられたことです。石川の里の御用林は元禄年間(1688~1703)に払下げられています。この当時は、中野に生類憐れみの令による犬小屋が作られている最中でした。
 元文年間は幕府財政立て直し、武蔵野新田開発の推進、新田農民の保護策が課題となった年代です。

 「周囲はかって七町歩(7万㎡)の御料林であったが、元文年間(1736~1741)に周辺の村人に売り渡され、今は開発山と称する。
 かっては、松柏が密生していた。池の堤の長さは廿五間余(45㍍)高さ一丈(3㍍)、幅六間(10㍍余)、馬踏三間(5㍍)余、奥行五十間(90㍍)余あった。
 池の囲りはおよそ三千坪(1万㎡)余あったが、今は、水なき所は民有地に属している。この池の水によって宅部、後ヶ谷、廻り田村までの田用水としている。
 池の三方は高山で、一方は深田の溝を流れて耕地に出て、宅部川へ流れ入っている。蓴菜(じゅんさい)が生じ、蛙が多く棲んでいる。」

杉本の里と内堀、上宅部の混在状況と小沢池の位置
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唐芋(薩摩芋)試作の書上

 注目されるのが、唐芋(薩摩芋)の栽培実験です。享保18年(1733)、杉本の里周辺で薩摩芋の栽培が始まり、試作の状況を伝える文書が残されています。

一、春に、唐芋の種を下され、生育の状況、蔓の出具合などを報告するように御回状を仰せつけ為されました。
 当村では蔓は生えるようには見えません。蔓はまだ出ていません。

    享保十八年(1733)丑四月二十二日
            武州多摩郡後ヶ谷村 名主 勘左衛門
                            組頭 八郎右衛門
                            同  武右衛門
    上坂安左衛門様御役所

 との報告です。「右は甘藷が武蔵野へ裁培し始められし折のもの也」と付記されています(『狭山之栞』p40)。
 将軍吉宗の命により、青木昆陽が小石川薬園に試植した前後に、早くも杉本の里で実地の試植作業が行われていることは驚きです。

氷川神社の創建に関わる杉本家

 杉本の里に接する地域に、氷川神社が創建されました。
 『狭山之栞』はその棟札について次の図を載せます。但し、棟札は火災によって焼失し、現物は残っていません。

『狭山之栞』(p52)による氷川神社棟札
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 1健保2年(1214)、棟札
  大旦那 石井美作(いわいみまさく)は杉本家の先祖で、いつの時期か、杉本と改称します。
  石井美作は菩提寺である三光院の開基者で、三光院の記録は、
  「開基の石井美作が延文四年(1359)に没」とします。
  時期がずれますが、中世から石井美作が杉本の里で活動したことは確実です。

 2慶長16年(1611)6月吉日、棟札
  本願旦那 石井勘解由は杉本家(石井家が改称)に伝わる「代々乃かがみ」では
  ・28代で寛永13年(1636)没
  ・鎮守氷川大明神本社上家再興
 とあります。この時の棟札であることが確認できます。

三光院の創建に関わる杉本家

 杉本の里に接する地域に、三光院が創建されました。草創・開基の年代は不明ですが、二つの伝承があります。

 ①『新編武蔵風土記稿』
 「開山は圓長と云、天永三(1112)壬辰五月三日寂す」
  東大和市内では最も早い開山となります。
 ②寺伝
  開山となった快元法印は延文二年(1357)六月一日に入寂。(三光院小史p8)
  開基の石井美作が延文四年(1359)に没。(『東大和市史資料編』8p48)
  とします。

 『新編武蔵風土記稿』と寺伝による開山の時期は開きがありますが、寺を開くに当たっての有力者に石井美作(=杉本氏)大きく関わっていたことは確実です。

宅部美作との関係

 中世になると、仏教の経典の木版摺りが普及して、出版されるようになりました。その一つに、立川の普済寺でお経の印刷が行われて刊行されました。貞治2年(1363)から応永7年(1400)にかけてのことと考えられています。
 この中の応安元年(1368)版に、「宅部美作入道貞阿」の名が記されます。この人物が石井美作と同一人物かどうかの問題が浮かびます。
 これらについては「宅部」のページでまとめます。

狭山・清水地域への移転

移転の状況 クリックで大

 杉本の里の集落は、村山貯水池の建設に伴い、大正年間、主に、現在の清水四~六丁目周辺に移転しました。
 ほんの一部の紹介になりましたが、杉本の里は中世からの歴史的な動きが確実に伝わる地域です。様々な面から辿りたいと念願します。

(2019.08.04.記 文責・安島)

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