石川の里(東大和市) 

石川の里(東大和市)

 村山上貯水池の湖底に沈んだ芋窪地域の古村が石川の里です。上の堤防の西(左)側ほぼ全域になります。
 狭山丘陵の峰と峰の合間に形成された集落でした。峰々からの湧き水を集めて、柳瀬川に合流する「石川」「宅部川」の最上流部です。

石川の里の現況 クリックで大

石川の里の風物

 この地に生まれ、貯水池建設により移転をした乙幡六太郎氏は
 「丘陵は高さ百尺(30㍍)内外で、中央に谷地を抱く。谷地は水田多く、わずかに畑地を交える。谷地のさらに窪き(低い)ところに一筋の流れがある。名を石川という。」(「石川をしのびて」意訳)
 と地形を説明して、下記の景観を描いています。

石川の里の景観 乙幡六太郎氏「石川をしのびて」
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 「住民のほとんどは、農を生業とし、
 石川谷地内の水田、畑を耕作し、
 又は移転場(現在芋窪五、六丁目、四丁目の一部)以南の畑地
 を所有もしくは小作(借地)により農業を営んでおった。

 農作物は水稲、陸稲、大麦、小麦、稗(ひえ)、粟(あわ)、甘藷(さつまいも)、野菜、茶などで、大体が自給自足型である。一部に養蚕(ようさん)をする家もあった。
 したがって、常食は米に麦(ひきわり)を交ぜて食するもの上流
 麦または稗に米を交ぜたのを中流、
 下流は麦と稗と甘藷を常食とし、しかもその数最も多かった。
 小麦粉による「うどん」「まんじゅう」等最良のご馳走であった。」(「石川をしのびて」原文)

 ゆったりした景観の中に、厳しい生活が営まれていたことが語られます。また、貯水池建設に際し移転した地域付近が、この当時から農業を営む場であったことが印象的です。江戸時代の新田開発が考えられます。
 
 村人と動物たちの共生の様子が、『東大和のよもやまばなし』に「藤兵衛さんと狼」「槌頭(つちんど)」「いかづちさま」などとして伝えられます。

石川の地名
 
 石川の地名の由来は、地元では、豊鹿島神社の創建伝承をもとに「天智天皇第三皇子の石川麻呂がこの地に滞在し、豊鹿島神社を創建したことによる」と語る方もいます。しかし、『新編武蔵風土記稿』が「このほか、疑ふベきことをも記したれば、この社伝もいちいちには信すベからず」とするように伝承として受け止めて居る方が多いようです。

石川の里の集落と溜め池 クリックで大

 石川には地名の基となったと考えられる石川麻呂の石碑が3基まつられていました。
 ①瀧沢明神社 文正元年(1466)10月3日 願主石川麻呂
 ②雷大明神碑 文正元年(1466)10月3日 願主石川麻呂 
 ③白山祠   天文3年(1534)11月3日 願主石川麻呂 
 
 碑文など、詳細については次をご覧下さい。


多くの溜め池

 谷ッを開発した村のため平地部は狭小でした。石川の最上流部に位置し、周辺の谷筋に灌漑用水池を設けて水田を営みました。池の名が地名をよくあらわしていますので、収録しておきます。

 土ヶ窪池、古池、南ヶ谷池、源太谷池、葭ヶ谷池、狼久保池、狼久保大池、滝坂池などで、丘陵の沢の溜池の姿が浮かびます。
 子ども達は
 ・池に注ぐ川を堰き止めててかい干しをして魚を捕る「川かい」
 ・細い棒の先に縫い針を付けて、夜間カンテラでドジョウをとる「ドジョウ打ち」
 などで遊んだそうです。

 なお、代表的な池として土ヶ窪について、『狭山之栞』が次のように記しています。
 
槌ヶ窪(つちがくぼ)

 石川の里で一番大きな池です。渓間にあり、約70㍍四方とします。『狭山之栞』が次のように記しています。
 昔、当地は人家を去る事十丁四方もあり。
 沼池の周囲には松柏が生ひ茂り、森々とせるため、水自ら満ちて大海の如く、人跡絶えし幽谷をなし
 槌頭(つちんど)と云う大蛇が生息していた
 峰や谷には猿・鹿・狐・狸が生息して、谷の水は旱魅の時も涸れることはなかった、
 しかし、元禄年間に御料林の払下げがあり、
 立木を伐り払い、そのあとを村人が所有した
 そのため、池の水は減り、大蛇なども何処へか姿をかくしたと云ひ伝ふ。
 槌が窪と名前が付いたのは、槌の形をした頭の蛇が棲んだことによる。

石川の里の位置と江戸時代の地誌の記録

 石川の里は下図の通り東大和市西北に位置しました。
 丘陵の南中腹に、豊鹿島神社がまつられますが、南麓にはお寺がなく、蓮華寺、慶性院とも石川にありました。
 この地には、東大和市最古の延宝8年(1680)庚申塔が建立されています。

石川の里の旧位置 クリックで大

 長文になるので、一部を省略し意訳します。

1『新編武蔵風土記稿』

石 川
 石川の山間より出る小流である。この外に悪水堀が村中を流れる、
 また、溜め池が七ヶ所あり、いずれもわずかなる池である、
愛染院
 除地、六畝、字前坂にあり、石澤山蓮華寺と号す、真言宗新義、中藤村真福寺の末、
 開山開基の年暦を伝えず、
 本堂八間半に七間東向、本尊不動木の立像長一尺三寸なるを安せり、
医王寺
 除地、五畝十八歩、字石川にあり、白部山慶性院と号す、これも同寺の末、
 開山承秀慶長六年(1601)十一月二十八日寂、
 本堂五間に八間南向、本尊薬師木の立像長一尺六寸、行基の作。
 鐘楼の鐘は正徳年中(1711~1715)の新鋳である。

2『武蔵名勝図会』

慶性院
 白部山医王寺と号す。新義真言、中藤村真福寺末である。
 元亀二年(1571)起立した。
 本尊薬師如来木立像、一尺六寸、行基作という。
 開山承秀法印は慶長六年(1601)十一月廿八日寂した。

3『狭山之栞』

 多摩郡山口領芋窪村の内石川
 この地は年貢、戸数とも芋久保村に包含される。
 宅部川の水源は字(あざ)槌が窪(つちがくぼ)に発し、
 新ケ谷戸(あらがやと)、宅部(やけべ)、清水、廻り田、野口の各村を経て入間郡久米村に至り
 柳瀬川に合流する。

石澤山蓮華寺愛染院

 石澤山蓮華寺愛染院は真義真言宗中藤村真福寺の末である。
 本尊は不動明王で、開基や草創は明らかでない。
 中興開祖の承雲法印は寛永八(1631)辛未年四月十二日に入寂した。
 法流開基は寛保三(1743)癸亥年十一月二日法印賢真の代に真福寺法印宥範より印可を受けた。
 なお、外に不動尊二体を安置する。薬師如来は狭山薬師三十七番の霊場である。
 寛永六(1629)巳年十一月検地の時、畑四畝廿四歩、寺屋敷共に蓮華坊へ下附せられ
 全部で約二町歩ある。
 檀家は百廿五戸である。

慶性院

 慶性院は白部山医王寺と呼び中藤真福寺末で、本尊は不動明王である。
 開山尊承法印は天文十六(1547)丁未年正月に寂した。
 地内に白山神社があるので、白部山と號し、薬師堂があるので医王寺と呼ぶ。
 寺僧圓鏡法師が伝える。当寺はかって、鹿島谷に小堂があったが、地頭が二人となり、知行所が分れた。
 そのため、薬師堂の地へ合併したらしいと。
 また慶性の二字は、慶長と同じ意味をもつ。これから考えれば
 慶長の頃、この地へ引寺したとも推定される。
 法流開祖は十五世鏡意法印で、天明元(1781)辛丑年六月十五日入寂す。
 開基より淳賢迄二十二世僧を経ている。
 前記の圓鏡法印は姓を田口と云ひ下宅郡の産にして三光院の順孝の徒である。
 同師は後の山中に水天の像を勧請した。

藥師堂
 西の山、字薬師峰上にある。
 本尊白檀佛の立像は長一尺五寸春日の作なり。狭山薬師三十六番の霊場である。
 先年、堂舎が焼亡したため、尊像は慶性院へ合併して、跡はそのままとなる。

◎蓮華寺、慶性院については次のページにまとめました。
 蓮華寺蓮華寺の歴史
 慶性院慶性院の歴史

住吉神社
 住吉神社は当地の鎭守である。
 祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命、素盞鳴尊等也。

 新しく「天王様」としてまつられました。
 旧住吉神社と御嶽神社については別のページにまとめました。

鉦打衆(かねうちしゅう)

 当地の石川に鉦打ちと称する者十三軒ある。
 十徳を着て、鉦を打って、村々を托鉢して生活する。
 また、内職に竹の柄杓(ひしゃく)を作りって商っている。
 水呑百姓と同様にして、村方百姓と交際しない。
 久米村の長久寺の檀家で、同寺に於ては石川の末寺方と尊敬しているという。
 姓氏は金子と云う。
 この由来を尋ねると、昔、悪逆の武将を説得して僧侶にした。その子孫という。
 近年まで、西谷に一二戸あったが、今は絶えてない。

氏族 
 高杉、荒畑、清野、菅沼、石井、村野、山科、谷内、井上、渡辺、橋本、田中、尾又

里からの移転

 村山貯水池の建設について、村人は、明治44年(1911)、中島博士による調査、報告の行われた時から対応に迫られました。
明治45年(1912)5月、村山貯水池建設案が決定され、大正3年(1914)、測量開始、1月10日には早くも蓮華寺に村山詰所(職員の詰め所)が置かれました。 

 以後、建設の反対運動から用地買収、移転へと大きな変化に遭遇します。ついに、大正3年頃から古里を離れ、一峰越した南麓の原(芋窪五、六丁目、四丁目の一部)へと墓石まで移転しました。

石川の里の移転先 クリックで大

 峰を超える坂道の引っ越しは一苦労で、近所総出で、手を貸し合ったと語られます。

  (2019.07.26.記 文責・安島喜一)

 天王様

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 旧住吉神社と御嶽神社

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