墓地の移転とミイラ
墓地の移転とミイラ
大正4年(1915)、村山貯水池の湖底に沈む家々は移転を開始しました。
何しろ、狭山丘陵の峰を一峰超えての移転です。解体した家屋の材料はもちろん家財道具一式を運びます。
鉄道はありません。トラックもめったに使えません。ほとんどが人力と牛の引く荷車に乗せて運びました。
中でも墓地の移転はおお事でした。大切な先祖様がまつられています。
例えば、下貯水池の内堀から奈良橋に移転した人びとの墓地の入り口には
「今も忘れ難い内堀の里から大正五年(1916)春、村山貯水池工事のため、やむなく此の奈良橋に居を移し、同八年(1919)、墓地を求めて墓碑を移転した。・・・」
と「今も忘れがたい」「やむなく」の言葉にしてその心情を彫り込んだ六地蔵尊の塔が置かれています。
上貯水池の石川で、墓地の移転が行われている最中です。新しい墓地から意外な姿が発見されました。
一部始終を『東大和市史資料編』2が次のように記します。
「墓地の移転も大変であった。当時は川に近い所にある、村民の集会所を兼ねた堂に附属した墓地のほか、複数の村民持ちの墓地や個人持ちのものが、多くは山林の中に点在していた。
移転の時は、警察官立ち会いで先祖の骨を掘り上げ箱に入れて菩提寺の万霊塔の下へ納めたり、自家の新しい墓地へ埋葬した。
買収が決まってから不幸のあった家では、取りあえず棺でなく土のかめに納めて埋葬したという。
土葬であったから、新仏の墓所の発掘は、決して快いものではなかった。石川でのことである。
一年前、はやり病いで亡くなった五才の幼女が、鞭(まり)を抱かせた姿のままミイラとなって発掘された。
一九一九年(大正八)三月十五日のことであった。
同家の墓地は、周囲道路から北に入った、通称「お大日墓地」と言われる所にあった。
珍しいこととして新聞にも取り上げられたので、大勢の見学者が来たという。」(p58)
東京朝日新聞(大正8年3月17日)は詳しくその状況を伝えます。原文を区切って引用します。
貯水池から木乃伊(ミイラ)
麻疹(はしか)で死んだ女児
東京市上水道第二期貯水拡張工事の指定地に属する北多摩郡高木組合芋窪村字石川墓地は
之が為去る十五日屍体の発掘並びに移転工事に着手せるが
其の際年齢四~五歳と覚しき女児の木乃伊を発見したるが
右は同村鹿島谷農業□□□□三女□(五才)が
去る大正六年二月二十五日麻疹のため死亡し其の屍体を埋葬したる事判明したるにより
東京工務課にては更に□□方に対し病名及び死亡年齢等を取調べたる上同家に引渡したるが
尚(なお)之につき同工務課専属技師は語る
『兎に角(とにかく)珍しい事実です。完全に木乃伊に化したのは急激な病死と風土の関係に依って屍体が極度に硬化した結果に基づくものであると想像されるのであります、尚(なお)之に就いて追って帝室博物館から出張することでせう』
令和のコロナに匹敵するのでしょうか、大正の時代、この地に、麻疹(はしか)がはやったようです。
手を合わせて、新コロナが次の波を起こさないように祈りながら、紹介します。
(2020.09.25.記 文責・安島)