永仁二年銘の阿弥陀種子板碑 東大和市重宝
永仁二年銘の阿弥陀種子板碑 東大和市重宝
東大和市内で現在発見されている最古(永仁二・1294年)の板碑です。
東大和市の文化財・重宝に指定されています。
指定の概容
所在地 奈良橋一丁目260番地の2
指 定 平成元年(1989)4月1日
管理者 東大和市郷土博物館
説 明 都立東大和公園から発見され、中世のこの地の仏教信仰を示すものである。
建立された場所がはっきりしており、当時の社会生活を知る貴重な手がかりとなる。
板碑って?
板碑については、いろいろ解説がありますが、郷土博物館の説明を引用します。
「13世紀から17世紀にかけて関東地方一帯で造られた仏教石造物です。
亡くなった人や生前の自分の冥福を祈るためにたてられたもので、
墓石ではなく、墓石の後ろに立てられる「卒塔婆」(そとうば)にあたるものです。
秩父地方から掘り出される緑泥片岩と言われる板状に割れる石を使ったものがほとんどで
市内では、この永仁2年(1294)が最古です。」
板碑の表側
・刻まれた二条線の下に阿弥陀様を表す梵字と連座
・その下に永仁二年の年号が刻まれています。
種子
阿弥陀一尊像の梵字と連座が刻まれています。
阿弥陀一尊像が刻まれている意味
東大和市内の板碑で多いのが
・阿弥陀一尊像が刻まれている板碑44%
・次が阿弥陀三尊像31%
・両者で75%を占めます。
・一尊像が刻まれる意味は『東大和市史資料編』(6p63)に次のように記されています。
「板碑に表現される代表的な種子である阿弥陀如来のキリークは、
仏教において説かれている根本的な三種の煩悩、三毒を寂滅する功徳があるとされている。
三毒とは、つまり、貧欲(どんよく むさぼり)、瞋恚(しんい いかり)、愚癡(ぐち 無知-仏教の教えを知らないこと)であり、
これを仏教用語では貪瞋癡(どんしんち)と略して称している。」
出土場所
狭山丘陵の都立東大和公園内で、下水道工事の最中に発見されました。
・周辺が開発される前の昭和33年(1958)の状況です。
・狭山丘陵の廻田谷ッに張り出す小さな台地の中腹にまつられました。
・次の図で周辺の遺跡との関係を記します。
・付近に、円乘院の旧地・延寿院があったことが伝えられますが位置は不明です。
・円乘院は平治元年(1159)の創建伝承を持ちます。
・奈良・平安時代から定着をした人々が
・二ッ池を用水として、谷ッの廻り田田んぼを開発し
・集落を形成したころ
・その地を見守るかのように永仁の板碑がまつられたことが
思い浮かびます。
なお、現在、永仁二年(1294)板碑が東大和市で最古とされますが、
・それより40年ほど遡る弘安六年(1283)の銘を持つ板碑が
・村山下貯水池堰堤の南側広場近くにあった墓地に存在したと
・五十嵐氏考の記録に残されています。
周辺の寺院と主な板碑
永仁の板碑と周辺の古代寺院、発見されている板碑は次の図のようになります。
・古代寺院が二寺
・弘安6年(1283)の板碑の存在記録(五十嵐氏考)
・正和2年(1313)板碑
・観応3年(1352)板碑
などです。
この時代になると、周辺一帯に小規模な集落が散在していたことが想定されます。
永仁の板碑は誰が、どのような願いでまつったのか知りたいです。
長くなるので永仁2年板碑に続けます。
(2022.03.31.記 文責・安島喜一)