永仁二年(1294)板碑
狭山丘陵周辺の板碑
狭山丘陵周辺の板碑の造立は次の通り、13世紀後半に始まります。
東村山市で奈良時代に造営されたと考えられる瓦製の五重塔を最古として、東大和市内では、1100年代に寺院(三光院、円乗院)の建立の伝承があります。それらの動向と共に仏教の影響がこの地域に及んできたことを物語るのが板碑です。
永仁の板碑
東大和市に現存する最古の板碑が永仁の板碑です。表面に阿弥陀様(一尊)を表す梵字と永仁二年(1294)の年号が彫られています。人名や供養の内容などは彫られていません。
発見された場所は、狭山丘陵南麓、二つ池の南、旧水道事務所があった北向きの斜面です。今は都立東大和公園の緑地になっています。中世には丘陵の南の谷から北の谷へ移る細い道が通り、そこから拝することができたと思われます。
南の原は一面の原野
1290年代は狭山丘陵の谷ッを中心に小さな集落が散在し、南面の武蔵野は一面の原野でした。御深院二条は『とわずがたり』で、1290年8月、信濃の善光寺から再び武蔵野に入り次のように書いています。
「八月の始めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の気色ゆかしさにこそ、今 まで、これらにも侍つれと思ひて、武蔵国へかへりて、浅草と申す堂あ り。十一面観音のおはします。霊仏と申も、ゆかしくて参るに、野の中 をはるばると分け行くに、萩(はぎ)・女郎花・荻(おぎ)・芒(すすき) より外は、またまじる物もなく、これが高さは、馬に乗りたる男の見え ぬほどなれば、推し測るべし。三日にや、分け行けども、尽きもせず、 ちと傍へ行く道にこそ、宿などもあれ、はるばる一通りは、来(こ)し 方行く末、野原なり。」(巻四の六)
この年(正応3・1290)11月銘の板碑が東大和市にもありました。村山貯水池に沈んだ五十嵐墓地にあったものが他所へ運ばれたと記録されています。(五十嵐氏考)