野球少年(モニュメント25)
野球少年
狭山公民館の向かって右側、狭山神社寄りです。子供さんからシルバーまで足を止めます。
市が設置したモニュメント・野球少年があります。
「ずいぶん、ユニホームがキッチキチだね」
「スパイクも運動靴みたい」
「なんで、ここにあるの。ここじゃ、野球は出来ないよね」
引率の方も困り顔です。像の足もとに付けられた説明板の作品紹介には「明治五年になると義務教育が始まりました。学校は、今までの寺子屋が仮校舎となり、五つの小学校ができました。その一つとして円乗院に竭力学舎(かつりきがくしゃ)ができました。
その頃、子供達は、木綿の着物に下駄か草履をはき、粉袋を開いた風呂敷には、弁当のさつま芋や学校の道具をくるみ、通学したそうです。
まだ野球は、はしりの頃で子供達は初めて行うスポーツに目を輝かせたそうです。」
とあります。
「明治5年って、いつ頃?」
「1872年だから、随分と昔だよ」
「着物着て学校へ通ったんだって?」
「きっと、ユニホームはカッコよくって、最高だったろうね」
作品紹介は、少し説明を省略して、明治5年に学校が出来たことと、この地で野球が行われたことを、一緒に書いているので、誤解を生みます。
正確には、『東大和のよもやまばなし』が次のように細かく伝えます。
「大正の頃、女子はおかっぱ頭か、三つ編にしていました。男子は夏はランニングで他の季節は、男女とも木綿の着物に下駄か草履をはき、粉袋を開いた風呂敷には弁当や学校の道具をくるみました。弁当は大ていふかした「さつま芋」です。
けれども子供たちは何のくったくもありません。さつま芋の弁当を持って元気よく学校に通いました。
丁度その頃、野球を教えて下さったのは、第三小学校の石井梅光先生です。まだ野球もはしりのころ、子供たちは始めてみるスポーツに目をかがやかせました。ところが、学校の周囲には、「からたち」のくね(かきね)があって、ホームランを打つと球がトゲに刺さりパンクしてしまいました。」(p79)
とします。
ここに出てくる第三小学校(村山第三尋常小学校)が説明板の「竭力学舎」です。『東大和市学校教育の歩み』では、次のように校舎の配置図を示しています。
現在の狭山公民館の北側に校舎があり、その前に約1000平方メートルの体操場=運動場=グラウンドがあったことがわかります。
そして、モニュメントがある辺りに「からたち」のかきねがあって、球がトゲに刺さりパンクしたのだと思われます。
実際に野球が行われたのは、大正(1912~1925)の頃であったことがはっきりします。さすがにハイカラ好きの東大和人でも、まだ、明治時代には野球はしなかったようです。
第三小学校は、大正に入り児童数が増えて二部授業になりました。さらに増加は続き、村では、大正12年(1923)、現在の第一小学校の地に、新たに村山尋常高等小学校を建築して、すべての小学校を統合しました。
その後は畑になっていましたが、昭和51年(1976)7月に狭山公民館が開設されました。
(2019.02.03.記 文責・安島喜一)