谷ッに散在する集落(東大和市の中世2)

谷ッに散在する集落(東大和市の中世2)

 中世、東大和市域の人々はどこに住んでいたのでしょうか?
 どのような生活をしていたのでしょうか?

中世、狭山丘陵の集落(郷)の分布

 ・狭山丘陵のほぼ中央の峰に、古代からの多摩郡と入間郡の境界が定められて
 ・狭山丘陵に刻まれた谷々を中心にして、ポツンポツンと集落があった
 ・丘陵のまわりはすべて武蔵野の原っぱで、まったく人は住んで居なかった
 と考えられています。 

東大和市域の谷ッの状況 クリックで大

 中世の住居跡や集落跡は東大和市域では発見されていません。荒ヶ谷戸(あらがやと)、鍛冶ヶ谷戸(かじがやと)・・・など人々の生活の基盤となった谷ッに名前をつけて位置関係を表したものと考えられます。

 中世の地域を「郷」(ごう)で表す場合があります。狭山丘陵周辺では図のような郷が知られています。東大和市域の人々は奈良橋郷(ならはしごう)と宅部郷(やけべごう)に生活していたと思われます。

 さらに、現在村山貯水池に沈んだ地域には石川、内堀、杉本、上宅部などと呼ばれる地区があり、集落が形成されつつあったと推定されます。

 石川、内堀、杉本、上宅部などには古代の遺跡があり、それらの継続が考えられます。村山貯水池の湖底に沈んだため、検証が出来ません。
 南麓の廻田谷ッは平安時代の住居跡が発見され、水田を営んでいました。中世にも引き継がれたと推定されます。さらに、この地には円乗院の一世賢誉法印が、平治元年(1159)2月8日没したと刻まれた墓碑があります。また、付近から阿弥陀様(一尊)を表す梵字と永仁二年(1294)の年号が彫られた板碑が埋納状況で発見されています。この時期、これらと関係する人々が住んでいたことが推定されます。

中世の神社とお寺の状況 クリックで大

 東大和市域全体の中世に関わる寺社の創建は伝承も含めて、次のとおりです。

 中世初期は

・神社 豊鹿島神社(当時は鹿嶋大明神、創建伝承707年 現本殿は1466年 )、
    御霊明神(当時は御霊大明神・1063年)、
    氷川大明神(現・清水神社に合祀 1214年)

・寺院 三光院(1112年)、円乗院(1159年)
 の伝承をもちます。

 1400~1500年代になると

・神社 豊鹿島神社の現・本殿創建(東京都重宝・建造物・文正元年(1466)10月3日)、
            熊野神社(当時は熊野大権現、小島蔵之助氏方古文書、天文2年・1533年)、
               八幡神社(当時は八幡宮 社伝 天正3年・1575年)

・寺院 慶性院(開基・羕尊上人が天文16・1547年に遷化)、
    蓮華寺(寛永8・1631年4月12日入寂した承雲を中興開祖)、
    雲性寺(古老の口伝に永享11・1439年)などが建設されます。図では神社名はわかりやすくするため現在名で記してあります。

天正19年(1591)の村切り想定図 クリックで大

 それぞれの谷筋に神社や寺院があります。このことから、丘陵に刻まれた谷々を中心に、中世初期から人々が生活し、小規模な集落を形成して、散在していたことが考えられます。具体的な家の状況や集落、村の名称などは不明です。

 それらが次第に発展して江戸時代まで続きました。天正19年(1591)、徳川家康の家臣が地頭として派属され、次のように村切りが行われて、近世の村が成立しています。

 (2019.03.04.記 文責・安島喜一)

 中世の村・廻田谷ッ

 奈良橋郷

 東大和の歴史・中世

 大まかな歴史の流れ・中世1

前の記事

村山党の武士の館

次の記事

高札の書き換え