よし、俺が立ち会って決めてくる 宅部下総入道
よし、俺が立ち会って決めてくる
宅部下総入道
中世、応永24年(1417)の出来事です。
丁度、上杉禅秀の乱の前後になります。
元気が良いのは我が村の先人かも?
と、興味を煽る人物が浮かんできます。
「宅部下総入道」(やけべしもふさにゅうどう)です。
東大和市と東村山市に連なる「宅部」(やけべ)
ここと関係がありそうです。
いったい、どんな人なのでしょうか?
残された古文書に
・関東管領(かんとうかんれい)上杉憲基(うえすぎのりもと)が
・立河駿河入道(たちかわするがにゅうどう)に対して
・土淵郷(つちぶちごう 現・日野市)にある土地や家を
・立河雅楽助(たちかわうたのすけ)に返還をするので
・宅部下総入道と一緒に
・現地で立ち会え
と記されています。
この時代、地域の成り立ち、大石氏や武州南一揆など沢山の課題がありますが、
ここでは立ち会いに行った宅部下総入道について書きます。
・応永24年(1417)は上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱が一応の終息をしたときに当たります。
・この乱は上杉家内の騒動(犬懸×山内)の面があり
・犬懸(いぬかけ)上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方・足利持氏と対立して
・応永22年(1415)、禅秀は足利持氏から関東管領の職を罷免されました。
・そのあとを継いだのが今回の話題の山内(やまのうち)上杉憲基(のりもと)です。
・禅秀に不満がつのります。
・ついに、応永23年(1416)、公方+憲基に対して反乱を起こします。
・憲基は一度は破れ、越後に落ち延びましたが
・応永24年(1417)、将軍足利義持などの応援を得て、
・挽回して、禅秀を滅ぼしました。
・応永24年1月には
・1月6日、入間河(狭山市)御陣、
・1月8日、久米河御陣(東村山市)、
・1月9日、関戸(多摩市)御陣、
と戦いがあり、宅部下総入道も何らかの形で関わりを持ったものと推測します。
・1月10日、禅秀は鎌倉で自害します。
この間の出来事です。
・立河雅楽助は普済寺(立川市)の付近に勢力を張っていた武蔵武士で
・最初、禅秀に味方したようです。
・そのため、乱中に、土淵郷(現・日野市)にある土地や家を
・公方(くぼう)に没収されました。
・しかし、その後、雅楽助は公方に味方したのか、乱後になって
・没収された土地などが返還されることになりました。
・応永24年(1417)、その土地の現地確認が行われることから
今回の文書が出される事になったようです。
◎駿河入道と雅楽助は親子で、一時の対立はどちらに何かがあっても
乱後に立河家を残す方法であったかも知れません。
狭山丘陵中世の郷
狭山丘陵の中世の郷は、図のように考えられます。
・奈良橋郷は芋窪の豊鹿島神社の本殿創建棟札(1466)に記されています。
・宅部郷は村山下貯水池に沈んだ区域から東村山駅周辺までの細長い地域です。
・「下総入道」は諸所に顔を出しますが
・わざわざ「宅部」を付していることから、この地域に関係がありそうです。
・とすれば、宅部郷のどこに基盤を広げていたのでしょうか?
宅部と有力者
・残念ですが、東大和市域内では、「宅部下総入道」の名を残す資料は、発見されていません。
・ただ、宅部郷の氷川明神は、開基を「石井美作入道」とします。
・また、正平23年(1368)に発刊された普済寺の刊経には、
・後援者として「宅部美作入道貞阿」の名が刻記されています。
・東村山市多摩湖町からは「瓦塔」が発見され
・同下宅部(しもやけべ)遺跡から発見された土器(8世紀後半)には
「宅」「家成」などの文字が記されています。
・また、入間・多摩の郡界には悲田所(天長10・833)が置かれています。
・弘安年代(1200年代)開基とされる正福寺には北条時宗や北条時頼の名が伝承されます。
・こうしてみると、宅部地域には古代から中世に至る有力者が活動していたことは確実です。
これからが楽しみ
以上、ざっくり宅部地域を辿ってみましたが、
「俺が立ち会って決めてくる」と出かけた
「宅部下総入道」の名を残す人物は確定されません。
一つ一つ、積み重ねて確定して行きたいものです。
それだけに楽しみが広がります。
(2022.01.15.記 文責・安島)