米軍大和基地の建設通知、反対運動

米軍大和基地の建設通知、反対運動

 「ここに、米軍の基地があったんだって?」
「ちっとも知らなかった」
 玉川上水駅前広場の「米軍大和基地の碑」の前です。

玉川上水駅前広場に設けられた「米軍大和基地の碑」

「ここから、大体、
 都立東大和南公園のグラウンド、
 東京都水道局東大和給水所、
 西武鉄道の車両基地
 までぐらいの地域ですよ」
「そんなに広かったんだ。いつ頃の話・・・」

米軍大和基地のあった位置
クリックで大

1 建設(調達)通知

 昭和27年(1952)9月25日です。当時の東京都経済局長から北多摩地方事務所長あてに通知が来ました。
 西武鉄道の所有地を立川飛行基地の拡張米軍用地にするため、調達するとのことです。その写しが残されています。
内容を見ると
・日米合同委員会飛行場分科会が検討
・立川飛行基地の拡張
・西武鉄道所有地約42町歩
・調達する
・大和村長と農業委員会長に通知願う
・調達の実務は特別調達庁が行う

 とするものでした。
 10月6日、北多摩地方事務所の事務官から大和村へ、この内容を記した「はがき」が届けられました。
 村では、その年の夏頃、東京都の職員が来村したとき、「米軍の将校ハウス」を建設する動きがあることを非公式に聞いていました。次いで11月23日、東京都経済局農地課長から
・在日合衆国軍の独身兵舎を建設する
・西武鉄道所有地を約12万坪(393,000平方メートル)       
・無期限使用
との文書が届けられました。
 そこに右図のような略図が添付されていました。

『東大和市史資料編』1p120を模写
クリックで大

 この図により、当時
・東京瓦斯電気工業  92,000坪
・西武鉄道株式会社   126,000坪
                       5,800坪
・農耕地                 30,000坪
 に分かれていて、その内の126.000坪が対象になったことがわかります。(野火止用水が玉川上水になっているのは原図によります)

2反対運動

 通知を受理した村は対策に追われます。何よりも予定地から約150メートルほどの所に中学校と小学校があったこと、住宅地に密接していたことが大きな関心を呼びました。

米軍大和基地とその周辺
クリックで大

 当時、中学校は戦前に日立航空機(株)が設立していた青年学校の校舎を使って開校されていました。大和村唯一の中学校で、村全域から生徒が通っていました。位置は現在のヤオコーの場所です。 
 小学校は、4年生以下の児童が中学校(旧青年学校の校舎)の校舎の一部を使って授業を受けていました。

 このため、教育環境への影響が危惧されて、特に、教育関係者から対応が注目されました。その動きは『東大和市史』(p352)に要約されています。

・十二月一日 村長及び村の理事者は衆院外務委員長に同道を乞い、外務省国際協力局第三課に説明を求めた。
 課長は「関係官庁で十二分に調査した結果の決定」と言い、
 外務委員長は「基地の反対をしてもむずかしいだろう」と言う。
・十二月五日 府中の施設が移転してくると聞き、村長は府中町長に事情を聞きに行く。
 それほどの問題はないとの府中町長談。
・十二月六日 村議会で協議会を開いたが意見まとまらず。
 村内各種団体の合同協議会を開くことになった。
・十二月十一日 小学校で村内地域代表、各種団体代表を集め協議会が開かれた。結論は出なかった。
 青年団の代表が「兵舎設置に絶対反対だから諸団体も協力してくれと言われるのかと思ってきたが、村会は意向を示さず我々の意見を聞くだけ、というのはどうしたことか。」と気色ばんだ。
・十二月十六日 兵舎設置予定地近くにあった中学校教職員が会議。
 小学校教職員も共に教育環境を守るべく歩調を揃えようと決める。
・十二月十八日 中学校生徒会も評議会を開き自分たちなりに反対の気持ちを訴えることになった。
・十二月二十一日 各団体からの選出委員により「在日合衆国軍兵舎設置反対期成同盟」(以下「期成同盟」という)を結成。
 会長は内野禄太郎村長。
 反対署名を二十五日までに集め、同日村民大会で決議を行うこととする。(一部省略)

 第一回村民大会

 昭和27年(1952)12月25日午前10時30分、現・第一小学校校庭で開催されました。
 村民数百人が集まり、次の決議文を採択しました。

 在日合衆国軍兵舎設置反対決議文

 「我が大和村は美しい自然環境と素朴な人情に恵まれて都内に稀な平和郷である。
 然るに、この度村内旧日立工場跡の西武鉄道株式会社所有地に兵舎建設の決定が一方的に通告されて来たのである。この報に接するや、当局の非民主的な処置に憤激すると共に従来全国各地に起りつつある学校教育環境の破壊、風紀の紊乱、各種犯罪の発生、交通事故の頻発、諸物価の高騰、公衆衛生上の不安等枚挙にいとまなき弊害にかんがみ、醇風美俗の損われんことを危倶して、全村民一致、断呼として反対運動を展開することを決意した。

  然しながら、我等は殊更に米軍の行動を誹謗したり徒らに日米行政協定を否定したりするものではない。期するところは、民主憲法において認められた基本的人権の確立と生活権教育権の確保を念願する以外の何物でもない。

 我等はこの念願を達成する為に村民大会を開催して兵舎設置絶対反対の方針を確認し、広く世論に訴へて、当局の決定を撤回するよう強力な運動に邁進することを期する。
 右決議する 昭和二十七年十二月二十五日
                        在日合衆国軍兵舎設置反対村民大会」

 この決議文をもって、国会、大蔵省、外務省、建設省、農林省、調達庁、米軍司令部などに陳情しました。
 しかし、中止の動きはなく、翌年1月、第二回村民大会を開きました。

米軍大和基地が建設された時の周辺図
クリックで大

第二回村民大会

 昭和28年1月7日に第二回村民大会を中学校校庭(当時は現・ヤオコーのところに中学校はありました)で開きました。600名が集まったとされます。
 大会後、各班に分かれて、次の理由をもって、基地建設中止の陳情が行われました。陳状の内容は『東大和市史』(p354~355)によれば
 ①建設予定地から150㍍の所に小中学校がある。
 ②社宅が800戸も密集して隣接している。
 ③地下水面が深いので水の枯渇が不安。
 ④玉川上水や野火止用水が近くを流れている。
 でした。

 特に、基地に近い南街地域では「兵舎反対南街連絡協議会」を結成して、バスを仕立てて国会への陳情を行いました。

陳情は受け入れられず、強制収用

 村中の住民で構成した期成同盟は国会を始め関係する各機関に陳情を繰り返しました。結局は受け入れられませんでした。
 ついに、昭和28年(1953)3月5日、米軍兵舎設置を決定する公文書が届きました。
 土地所有者の西武鉄道(株)に対しては、土地収用法による強制収用が適用されました。

 建設については次に続けます。

  (2019.06.12.記 文責・安島喜一)

 大和基地の建設、中学校移転、日米連絡協議会

 米軍大和基地の碑

 東大和の歴史・現代