大和町になる
大和町になる
大和村が、基地問題に揺れ動いているとき、地方自治の面で、新しい動きがありました。第二次世界大戦後、大きく変革された地方自治が地道に積み上げてきた実績から、さらに仕事を地方自治体に移して地方をより充実させ、住民に直結した仕事の効果を上げるべきとの指摘です。昭和24年(1949)、シャウプ勧告がなされ、行政事務の再配分が課題となりました。
検討が進み、小規模団体を整理して適正化を図るべきとの立場から、昭和28年(1953)9月、「町村合併促進法」が公布されました。国は人口8.000人未満の町村を解消して、町村数を約三分の一にすることをめざしました。
合併の利点として、
①財政力が強大となり、財政運営の弾力性が増大する
②財政規模が拡大するので、役場費、議会費などの消費的経費に対して、土木事業費などの投資的経費が増える
などがあげられました。
大和村は独立心が旺盛でした。江戸時代、狭山丘陵の麓を親村として、猛烈な労苦を重ねて野火止用水際まで武蔵野の新田開発をして縦に細長い村を形成してきた思いが生きていました。他村との合併ではなく、この期により自立性の高い「町制」を敷くべしとの意見が出ました。
当時(昭和28・1953年10月1日)の大和村は
・全戸数2.153戸 連たん戸数1.505戸(69%) 総人口12.800名
・都市的業態に従事する者及びそのものと同一世帯に属する者7.757名(全人口の60.6%)
でした。町としての要件を満たしていました。
この基盤を活かし、さらに住民福祉の増進を図るとして、昭和29年(1954)5月3日、憲法記念日を選んで町制を施行しました。大きく和そうの精神が生かされ、町名は「大和町」(やまとまち)としました。
人口13.052人 世帯2.483でした。
しかし、町は、狭山丘陵の南麓を本拠とする従来の古村と南に新しく形成された南町の間には、広大な農地が広がっていました。
丘陵の懐に抱かれる「ほんそん」(本村)と上下水道の整った「みなみまち」(南町)の間の畑地に、昭和30年代中頃から、宅地開発が進み住宅が散在し始めました。町は新たな課題に追われます。「スプロール」と呼ばれる無秩序な開発の解決です。
町になって11年たった昭和40年(1965)の状況です。南には、米軍大和基地があり、陸の孤島と呼ばれた都営東京街道団地、高木団地、集団的宅地開発最初の第一光ヶ丘団地が畑の中に点在しています。
町は、住民の福祉向上と調和のとれたまちづくりという大きな課題に直面しました。
町役場は従来の村役場がそのまま継続して使われました。現在の奈良橋市民センターの場所にありました。
(2019.06.14.記 文責・安島喜一)