幻の村山村騒動2
北多摩郡長から呼び出された高木村外五ヶ村組合会の議員達は、郡長と村長の一方的な進め方の背景に何かがあることを察し、反対の運動を郡長を統括する府知事に向けて続けます。
⑦東京府知事に反対を訴え
明治34年(1901)5月1日、郡長は信頼できないとして、蔵敷村は東京府知事宛てに、先に郡長に出した陳情と同じものを提出しました。
背景に、「郡長ハひそかニ村長ニ命シテ、合併ノ協議行届タル上申ヲ村長ヨリ差出サ」せたのではないかと、郡長に対する疑いを持ったからでした。
⑧高木、清水村議会の反対
蔵敷村に引き続いて、5月9日、高木村、5月11日清水村が「合併の否認あるいは宮鍋村長による合併の上申を不服とする決議をし、そのことを府知事に上申」しました。
⑨北多摩郡参事会の可決
しかし、各村の村人が知らない中で、上位機関で不思議な出来事が行われていました。当時の合併の手続きは
・村会と郡参事会の意見聴取
・府県参事会が議決
・最終的に内務大臣が許可
と定められていました。それが、反対運動の行われている最中の5月6日に、すでに、北多摩郡参事会が6か村の合併案を可決していました。
これは、郡長と村長、上位の関係組織全体が合併に向けて歩調を合わせていたことになります。
⑩工作された組合会議
5月20日、組合村村長は、府知事の諮問に答えるためとの名目で組合会議を召集しました。ここでも、不可解なことが起こります。『東大和市史資料編10』の記述です。実際の開催日になると
「召集日の五月二十日「定時ニ出席ノ議員アリシニ村長不在、書記ハ既ニ議決セシ」と説明するという、不可解な状況なのである。当然議員たちも、書記に対し「時間以前ニ議決アルベキ由」や「出席議員ノ数」を問いただしている。そして「議事録其他会議ニ関スル書類ノ一覧」を請求すると「役場ニハ該書類一切ナク、村長持参セリ」というありさまである。さらに駐在巡査に、早朝に会議があったのかどうかを訪ねると「三、四名来ルカト思ヒシニ、忽チ解散シ、其時ハ書記モ出勤セズ」という答えである。
という状況でした。開かれない組合会議を開いたようにする工作であったようです。反対派は、5月23日、郡長及び郡書記に面会し、組合会議の不正を陳情しました。しかし、その対応は「唯答申ナキ由ヲ聞ク耳」であった。とします。(p45)
以後、
・6月5日、高木村、清水村が府知事に村長の不正を訴える上申提出
・6月14日、蔵敷村議会が反対決議(意見書提出)
・6月15日、組合村村長が蔵敷村の議決の執行停止を宣言
・6月25日、反対派が府知事への調査要求
と各村が揃って運動を続けました。
⑪府知事への合併案撤回願
組合村と各村の間で、様々な動きが重なりました。そして、8月31日、各村は連帯して「組合村合併議案御撤回願」を東京府参事官、東京府知事に提出しました。
当時の様子をよく伝えますので、趣旨を要約します。
組合村合併議案御撤回願
北多摩郡高木村外五ヶ村組合
高木村、清水村、狭山村、蔵敷村、奈良橋村、芋窪村
撤回願の要約
・明治21年(1888)、市制・町村制施行の際、協議が行届かず合併しないで、
・明治22年(1889)、高木村他五ヶ村組合を設け、事務を共同処理して来ました。
・何ら差し支えないにもかかわらず、
・明治三十四年三月中に、組合村長は合併の協議が相整ったと虚偽の稟申(申し上げ)をし
・町村制第四条一項の処分(合併)を求めました。
・郡長はこれを調査もしないで、軽率の処置をして
・府知事は諮問案を発せられました。
・このため、組合村に紛争を醸成し、各村々より郡長、知事にしばしばその事情を陳述し、
・数回の上申をして、早くも半年になり
・多くの地方行政の錯乱を来たし不穏の状況に立ち至ったので
・公益の為め、これまで通り組合制に据置き下され
・組合村村長が提出した合併案を府参事会へ提出されないようにお願い致します。 『東大和市史資料編10』p47
・北多摩郡には、中藤村他三ヶ村、大神村外八ヶ村、西多摩郡箱根ヶ崎村外三ヶ村、福 生村外一ヶ村、菅生村外四ヶ村、明治村外一ヶ村等の組合があって地方及び国家の政務上差し支えない ことは明瞭であります
・願意を御聴きとり頂き、人民が安堵するよう
・御処置下されたく、各村総代が連署してお願い申し上げます。
明治三十四年八月三十一日
右
高木村人民総代 尾崎房七
以下 七名連署
東京府参事官
東京府知事男爵千家尊福殿
次に続けます
(2019.10.04.記 文責・安島)