豊鹿島神社に関わる地誌の記録
豊鹿島神社に関わる地誌の記録
豊鹿島神社に関わる江戸時代の地誌には『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』『狭山之栞』などがあります。いずれも豊鹿島神社の江戸時代の姿を伝えます。内容が豊富で、示唆に富んでいます。原文の一部を読みやすくし、ふりがなをつけて紹介します。
『新編武蔵風土記稿』(文化10年・1813 多摩郡)
鹿島神社、社地、一萬三千六百六十四坪、御朱印十三石、本社六尺上屋を設く、拝殿二間に五間半、幣殿二間に二間半、
社傳を閲るに、慶雲四年の鎮座にて、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭神とし、神体は龍王丸とて、則武甕槌命の太刀なりしといへど、神主も拝することを得ざるよし、
社を造立ありしは、天智天皇第四姫官なりしとも、又、蘇我山田石河麻呂たりしとも記し、この外疑ふベきことをも記したれば、此社傳もいちいちには信すベからず、さはあれ、後にのせたる文正・天文等の棟札あるをもて見れば、旧きよりの鎮座なりしことは知るべし、
例祭は九月十五日なり、
神宝 武甕槌命鎧(よろい)の袖 5寸許、
黄金石 5寸許、
錦几帳 東照宮御寄進なし給ひしよし、外に尾州亜相公(尾張徳川家)この辺遊覧の折柄、当社に詣て自ら書して賜ひしという歌などありと云
鐘 大鐘なり、銘に
奉納撞鐘一口
鹿島大神宮神前
建武三子年三月十三日
武州多東郡上奈良橋村(ぶしゅう たとうぐん かみならはしむら)
深井三郎源光義妻 敬白
按するにここに載たる鐘銘に、多東郡上奈良橋村とあれば、当社草創の頃はこの辺り奈良橋村の内にて後別に一村となりしに、其おりからこの社も今の如くこの地に属せしものたるべし、又深井三郎光義といへる人は、外に所見なし、もし此社の棟札にしるせる、本且那源憲光といへるものも、深井の子孫なるにや、これらのことその徴とすべきものあらざれば今より知りがたし、又此鏡(鐘)社頭にかけおきしを、いつの頃にかありけん 奪はれて今はなし、ただ鐘銘のみをかつたえり、
末社 白山祠 子の神祠 山王祠 本社の左右にあり、何れも僅かなる祠なり、
神主
石井市之進 社地の西方に住めり、此人の先祖石川出羽守は、ここの地頭酒井某と共に、大阪御陣にも出たりなどいへど、させる記録はなし、
石
社前の原上むはら生ひ茂れる中にあり、要石と称す、其さまをいはば、長さ二尺五寸許、横四尺許、径り一尺五寸、黒色にしていと潤沢あり、かかる田間にありては、耕作の妨たりとて、いつの頃か百姓等よりつどひ、穿ちすてんとせしに、地下に至るほど石の形ますます大にして、たやすく掘得ベきにも非れば、是より土人要石と称せる名を得たりと、村老の口碑にのこれり、按るにこの石、適々(たまたま)鹿嶋社前にあれば、かかる話を附合(ふえ)せしにゃ、覚束(おぼつか)なし、
『武蔵名勝図会』
鹿島大神宮 芋窪村にあり。神主石井氏。御朱印高十三石。社地一万三千六百六十四坪余。本社。幣殿。拝殿。
神木 槻囲り二丈二尺四寸、雨降桜古木は朽枯して、いまは若木なり。
神体 竜王丸と号す木立像あり。
例祭 九月十五日。
末社 白山、子ノ神、山王、各小社。
神宝 錦の戸帳、神祖君御寄附。人麿絵像、正保年中(一六四四~四八)尾張大納言卿御画讃、御狩の節に御寄附。
社頭にあった鐘 鐘銘「奉撞鐘一口、鹿島大神宮神前、建武三子年(一三三六)三月十二日、
武州多東郡上奈良橋村、井沢三郎源光義妻敬白」
鐘銘に上奈良橋村とあれば、建武の頃は斯く号せしにや。数百年前のことなれば、さもありぬべし。この鐘は四、五十年以前に盗人のために失せしとなり。惜しむべきことなり。
古棟札 二枚。
社伝云う、当社は慶雲四年(七〇七)丁未 武蔵国へ鬼神来る時、常陸峯にて鬼神を鎮めたまう。今、鹿島之艮(うしとら=北東)之方二町に六本松がある。御陣場と云い伝う。天智天皇第四姫、又蘇我山田石河麻呂と申す人建立なり。今、祭礼に獅子舞有。それ、獅子の頭三面なるを用ゆ。是は鬼神の頭三面にして、身長一丈六尺ありし鬼神なり。それを鎮め給う古例なりとぞ。
『狭山之栞』
豊鹿島神社
豊鹿島神社は村里の惣鎮守にして勧請年紀不詳、祭紳武御加豆智命(たけみかづちのみこと)にして祠掌兼教導職権少講義(ごんのしょうこうぎ)石井以豆美(いしいいずみ)世々日是を守護せり。祭典毎歳九月十五日、獅子舞の神事古例なり。
慶安二年(1649)徳川家三代目将軍家光公より朱印を賜はりしが維新之際奉還す。
同社東之方に在る石燈籠(いしどうろう)高五尺許。共銘曰(いわく)正面鹿島太神宮寶前二世安楽所年號正保四丁亥(1647)三月吉日。
脇に御日待供養六郎左衛門、前左衛門、小兵衛三名あり。
同西之方石燈龍の銘に曰、鹿島太神宝前武州多摩郡上奈良橋郷井窪庄元禄十五年(1702)壬午十月吉日。正面の下に中村吉左衛門、比留間前左衛門、石井佐衛門、中村文右衛門、東の方に石井曽右衛門、木下久七郎、比留間長左衛門、西の脇に加次賀彌兵衛、加間田次右衛門、関口庄兵衛等十名連署也。
神寶
錦の几帳は東照君御奉納也。
寶劔は龍王丸と號す。
人丸の絵像は尾張大納言の自筆なり。
境内に雨降櫻の名木ありしが枯れたり。
注蓮(しめなわ)張杉二本は各廻り一丈許り洞木にして蛇の棲み場たりしが二本とも伐る。神木と称する欅廻り二丈三尺根の敷張凡十間四方神代木(じんだいぼく)なり。狭山のうち右の上に出る大木なし。
家光公御朱印写
慶安2年(1649)8月24日
武蔵国多麻郡芋窪村鹿島明神と記されている。
棟札
文政元年(1466)十月三日
奉建立鹿島大明神社壇一宇 本旦那 源 憲光
天文三年(1534)
奉建立鹿島大明神社一宇 大施主下総住 工藤入道
撞鐘銘
建武三年(1336)七月廿日
奉納撞鐘一口 澤井三郎源光義妻敬白
要石(かなめいし)
要石は楯野(立野・たての)にあり。高二尺許、廻り六尺五寸。
里語に此奇石の傍(かたわら)を穿(うが)ちて子供の有無を知ると。虫一匹を得れば一子、二匹なれば二子を得、死したるを得ば子死すと云う。
要石の傍に樅(もみ)双生す。一本は廻り一丈一尺、他は七尺余あり。此の付近に昔庵室ありしと云へど今はその跡を知らず。
注
①『新編武蔵風土記稿』『狭山之栞』は天文三年(1534)十一月三日の棟札を記しています。
この棟札は本殿改修時には発見されませんでした。その後の分析結果、天文十九年(1550)棟札の書き写し違いとされています。
現本殿の棟札については別に記します。
②建武三年(1336)の鐘について3資料の記載内容が違います。鐘が奉納された日、奉納者が次のようになっています。
『新編武蔵風土記稿』 建武3年3月13日 深井三郎源光義妻敬白
『武蔵名勝図会』 建武3年3月12日 井沢三郎源光義妻敬白
『狭山之栞』 建武3年7月20日 澤井三郎源光義妻敬白
なぜこのような事になっているのかは不明です。
③各資料については『東大和市史』『東大和市史資料編』に紹介されています。
(2019.12.06.記 文責・安島喜一)