須賀神社奥の院(岸の天王様・奥社 武蔵村山市)

須賀神社奥の院(岸の天王様・奥社 武蔵村山市)

 須賀神社は奥の院から始まりました。悪病鎮護を願い狭山丘陵の峯の杉と雑木の林にこんもりと包まれてまつられています。かって、東大和市芋窪・石川の里にまつられた天王様もこうであったのだろうと思い、深く頭を垂れて手を合わせます。創建は不明ですが、文治年間(1185~1189)との伝承があります。

狭山丘陵の峯の林に包まれて、静かにまつられる須賀神社奥の院・奥社 
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 奥の院について、『武蔵村山市史民俗編』は次のように記します。

 「奥の院は奥社と呼ぼれ、文治年間(一一八五~一一八九)に建てられたものだという。奥社には、はじめ大山祇神(おおやまつみのかみ)と日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られていたが、岸村が開かれた際に、山伏三行院信道が村の悪疫鎮護(あくえきちんご)のため素蓋鳴命(すさのうのみこと)を祀ったという言い伝えをのせている。・・・江戸時代には牛頭天王(ごずてんのう)と呼ばれていた。・・・」(p575)

 ここに云う、「岸村が開かれた際」がいつなのかは、難しいので『武蔵村山市史』の「明治一二年(一八七九)に記された「社寺明細帳控」(以下「明細帳」と略す)には、寛永一〇年(一六三三)六月一五日、悪病鎮護のために祀ると記されている。」(p575)によりたいと思います。

 岸村は、寛文8年(1668)までは、岸(きし)・石畑(いしばたけ)・殿ヶ谷(とのがや)・箱根ヶ崎の4か村で「村山村」という一村を形成していました。その後、現在のように分村したとされます。このことの詳細については是非お教えを頂きたくお願いいたします。いずれにせよ、江戸時代初期には天王様になったことが考えられます。

奥の院・奥社と現社殿の位置関係

 奥の院・奥社と現社殿との位置関係は、『武蔵村山市史』上巻の絵図によって、また、明治13年(1880)年測量の国土地理院迅速図で、二つの社が丘陵とその麓に立地した状況がよくわかります。

 身近には、野山北・六道山公園管理事務所発行による「都立 野山北・六道山公園」パンフレットがあります。村山貯水池の周囲道路からも里山民家、岸たんぼを通っても奥の院・奥社とが通じ合っています。

須賀神社奥社と須賀神社の位置 野山北・六道山公園管理事務所発行
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奥の院・奥社

 奥の院・奥社は村人の日常生活を営むところからは杉林の山路を登ります。高齢者には結構急な坂が続きます。

奥の院への路 クリックで大

 息を切らせて登ると狭山丘陵の中腹に鳥居が見えてきます。

麓の里山民家、岸たんぼを経由して丘陵を辿った奥の院 クリックで大

 さすが、峰の見晴らしの良い、杉林の茂る場所にまつられています。(ただし、寛文8年(1668)の頃は草地であったことが絵図に描かれています)

鳥居、須賀神社の碑があり、急な石段を登ります。

 この奥の院が「岸の天王様」「牛頭天王社」と呼ばれて、伝染病や悪い病気の鎮護の神様として村人に大切にされました。

須賀神社奥の院・奥社 クリックで大

 この奥社には様々な歴史が積み重ねられて来ました。『武蔵村山市史 民俗編』は次のように記します。

「須賀神社の現在の社殿は、もともと拝殿であった。祭神が祀られていたのは、岸の北方山中にある奥の院である。「岸の天王様」の呼び名で知られ、奥の院境内の杉の皮や葉を取ってきてトンボグチ(戸口)に飾ると疫病除けになるという言い伝えがある。

 須賀神社は、江戸時代、牛頭天王社と呼ばれていた。明治一二年(一八七九)に記された「社寺明細帳控」(以下「明細帳」と略す)には、寛永一〇年(一六三三)六月一五日、悪病鎮護のために祀ると記されている。現在の社殿はもと遥拝所で、「明細帳」によると、本宮が遠く信徒の便宜をはかるため、寛政二年(一七九〇)六月、毎年六月一五日に行われていた例祭の神楽の旅所と定め、祭典を執行するために建立されたという。

 明治三〇年(一八九七)前後に記された「答申書」によると、奥の院は奥社と呼ぼれ、文治年間(一一八五~一一八九)に建てられたものだという。奥社には、はじめ大山祇神と日本武尊が祀られていたが、岸村が開かれた際に、山伏三行院信道が村の悪疫鎮護のため素蓋鳴命を祀ったという言い伝えをのせている。奥の院の鳥居は大正三年(一九一四)、拝殿の鳥居は昭和四年(一九二九)、拝殿は昭和一九年(一九四四)に建てられた。祭日は、新暦移行後に七月一五日となった。現在は、七月一五日前の日曜日に行われ、御輿が岸全域をまわる。神輿は、寛政のころに作られたという言い伝えが残る。現在の神輿は、平成九年(一九九七)に新調された。(『武蔵村山市史 民俗編』p574~575)

改めて疫病よけの切実さを考えさせられる

 須賀神社が建立された頃、狭山丘陵周辺にはほとんど医療機関はありませんでした。そのため、ひとたび伝染病が地域に持ち込まれると集落の存在に関わる問題となりました。須賀神社のある村と違いますが、中藤村の江戸時代の疫病送りの姿です。

 安政3年(1856)9月21日の『指田日記』です。

 「先月廿八日、村方に痢疾(りしつ・流行病)多く病死の者多く、就中(なかんずく)、橋場組計(はしばぐみばか)りにて、拾人老少の病死により、痢病(りびょう・赤痢・疫痢)の邪気(じゃき)送り致し度き趣を村方へ相談これ有り、一同然(しか)るべきと申すにより、疫病(えきびょう・集団発生する伝染病)送りに準じ、村中私宅に集まり、思い思いに異形(いぎょう)の出で立ちをなし、常宝院・予、祈り主として丸山台に送る・・・」

病魔送り(中藤村)クリックで大

 流行病、伝染病などが蔓延した時、修験者が先導し、村人の多くが「異形」な姿をして、そのもとを村外に追い出す行事が描かれています。まさに新型コロナに翻弄される現代、地球外に追い出したい思いがそのまま伝わります。

 天王様はその祈りの中心となる神様でした。新型コロナウイルスが東京で集団発生寸前の時、この記事を書いています。天王様にこの難関から救って下さるよう心からお祈りして書きました。

 (2020.04.05.記 文責・安島喜一)

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