豊鹿島神社の歴史(東大和市)

豊鹿島神社の歴史(東大和市)

 豊鹿島神社の歴史を辿ります。最初につくられたのは慶雲4年(707)と伝えます。東大和市内で最も古い神社になります。
 現在の本殿は文正元年(1466)に創建されました。応仁の乱の前年です。その棟札には、東大和市のあたりが、中世には「奈良橋郷」という独立した郷であったことが記されています。本殿は東京都内最古の室町時代神社建築物として東京都有形文化財に指定されています。

豊鹿島神社 クリックで大

1豊鹿島神社の関係地

 豊鹿島神社は広い境内と共に、その関係するところは1.5キロにわたります。
 ・創建伝承の主が眠る村山貯水池に沈んだ石川の地
 ・奥宮(おくのみや)
 ・現社殿
 ・宮田橋(豊鹿島神社が所有する田んぼがあった)
 ・要石(かなめいし)
 と狭山丘陵を中心に南北に広がります。一つ一つに歴史が籠もります。


 創建伝承の里・石川、奧宮、現社殿、宮田橋、要石の位置関係 クリックで大

 これらを一度に紹介すると長いページになってしまうので、ここでは、神社の沿革と創建伝承に関わる石川について書きます。

2豊鹿島神社の沿革

 神社発行の「豊鹿島神社沿革」に次のように紹介されています。

旧地名 武蔵国多東郡井能窪村(いのくぼむら)
現在地 東京都東大和市芋窪一丁目二〇六七番地
御祭神 武御加豆智命(たけみかづちのみこと)

 創立の経緯は明らかではありませんが、『武蔵名勝絵図』記載の社伝によれば、創建は文武天皇の慶雲四年(七〇七年)、武蔵の国に来た鬼神を常陸峯(ひたちのみね)に鎮めて、天智天皇第四の姫宮及び蘇我倉山田石川磨が建立したものとしています。このときの鬼神の頭が三面であった古例に因み、かつて祭礼では三面の頭を用いる獅子舞が舞われたと伝えられています。(市の重要文化財に指定されている三頭の獅子頭が現存している)

 現在の本殿は、『新編武蔵野風土記稿』等に記載のあるとおり、文正元年(一四六六年)十月三日の棟札が、平成五年の大改修で発見され、実証されました。また、この改修で、計五枚の棟札が確認され、改修前の拝殿は、安政五年(1858)の完成であることが確認されました。(以上 神社発行「豊鹿嶋神社」より)

豊鹿島神社発行 案内パンフレット クリックで大

3大まかな歴史年表

・慶雲4年(707)8月、天智天皇第四の姫宮及び蘇我倉山田の石川麿(いしかわまろ)によって創建(社伝)
  村山貯水池に沈んだ地域に石川の地があり、石川麿の伝承が伝えられる
・建武3年(1336)7月20日、多田満沖五代の孫 澤井三郎 源元光が再建(社伝)
・建武3年(1336)3月13日、社頭にかけられた鐘の銘に、深井三郎源光義妻敬白とある
   (『新編武蔵風土記稿』、『武蔵名勝図会』)
・文正元年(1466)10月3日、現本殿が創建される。
 ・創建棟札には奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事 本大檀那 源朝臣憲光とある (都有形文化財)
 ・創建地として武州多摩郡上奈良橋郷の地域名が記されている

豊鹿島神社本殿 クリックで大

・天文19年(1550)11月5日、修理棟札 奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事 大旦那工藤下総入道(くどうしもふさにゅうどう)
・天正4年(1576)2月1日、修理棟札 奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事 細野主計殿 番丈衆十人御力合
・天正19年(1591)頃、徳川家康の家臣・酒井極之助(実明)が芋窪村に地頭として配属される
・慶長6年(1601)2月1日、修理棟札 奉造立鹿嶋大明神社頭一宇之事 大旦那 酒井筑前守 同強蔵
・正保3年(1646)6月良辰(吉日)、修理棟札 奉造栄鹿嶋大神宮御寶殿 大施主 酒井極之介重忠
・正保4年(1647)3月吉日、石灯籠(鹿嶋太神宮御寳前二世安楽所 御日待供養)
・慶安2年(1649)8月24日、徳川家三代将軍家光公より朱印を賜る13石(『里正日誌』1p119『狭山之栞』)
・元禄15年(1702)、石灯籠(「武州多摩郡上奈良橋郷 井窪庄」の銘あり)
・宝暦10年(1760)、狛犬完成 但し、様式から見ると製作年代はさらに遡る
・安政5年(1858)、覆殿・拝殿完成
・明治3年(1870)11月、鹿嶋大明神を豊鹿嶋大神と改称か?(韮山県への届け出書・里正日誌11p232)
・明治6年(1873)5月、芋窪村の村社と指定
・明治14年(1881)3月、郷社指定・豊鹿島神社 鳥居を再建
・明治34年(1901)、改修 
・昭和39年(1964)11月21日、豊鹿嶋神社本殿 東京都指定有形文化財指定
・平成5年(1993)1月7日、本殿修理工事のため仮社への遷座祭挙行
・平成6年(1994)12月23日、本遷宮祭
・平成7年(1995)3月26日、竣工奉祝祭

豊鹿島神社創建棟札によって存在が明らかになった奈良橋郷 クリックで大

4石川の里

 創建伝承に名が残る石川は村山貯水池に沈んだ上貯水池の地域です。その様子については「石川の里」をご覧下さい。
 石川麻呂の旧跡については、明治13年(1880)の様子を『東大和市史資料編2』多摩湖の原風景は次のように記します。

 「明治十三年調査の「皇国地誌」には、旧跡として次のように記されている。
 下石川第二千四百十九番地にあり、凡そ一畝歩(三十坪)余りの地なり、往古石川麻呂住居の地なりという。
 貯水池工事の際、この場所だけは発掘調査が行われたが、出土したのは馬具など五、六点のものだったという。」(p104~106)
 「下石川第二千四百十九番地」は下の図の滝沢池の付近です。

村山上貯水池に沈んだ石川の里 クリックで大

 石川には石川麻呂に関する石碑がまつられていました。村山貯水池の建設によって移転されて、その元位置はわからなくなってしまいました。現在は次のようにまつられています。

5石川麻呂名の残る石碑

 創建伝承に名を残す石川磨呂の銘を刻んだ神名碑は次の三基があります。

 ①瀧沢明神社 文正元年(1466)10月3日 願主石川麻呂
 ②雷大明神碑 文正元年(1466)10月3日 願主石川麻呂 
 ③白山祠   天文3年(1534)11月3日   願主石川麻呂 

 移転後は、①③は豊鹿島神社境内、②は芋窪四丁目の天王様の境内(現在移転中)にまつられています。調査の結果、3基とも文化四年(1807)に新しい石碑に刻んでいることがわかります。この頃、石川の谷に、これらの碑を造立し、豊鹿島神社、石川麻呂の崇拝を強める何らかの動きがあった事を推測させます。

豊鹿島神社本殿右側にまつられる①滝沢明神社③白山社

 ①瀧沢明神社 文正元年(1466)10月3日 願主石川麻呂
 ②雷大明神碑 文正元年(1466)10月3日 願主石川麻呂
 これらの碑の詳細はこちらをご覧下さい。

天王様境内にまつられていた雷大明神碑

 雷大明神に碑の詳細についてはこちらをご覧下さい。

 豊鹿島神社の本殿、棟札、末社、江戸時代の地誌などについては別に書きます。中世において神社の所在地を記した「上奈良橋郷」については奈良橋郷を参照下さい。

   (2019.11.26.記 文責・安島喜一)

 豊鹿島神社1(参道から石段)  豊鹿島神社2(前庭・境内社・奥宮・要石)

 豊鹿島神社に関わる地誌の記録

   豊鹿島神社の境内社(1概要)

 豊鹿島神社の境内社(2日吉神社)

 豊鹿島神社の境内社(3愛宕神社 白山神社 滝沢明神社)

 豊鹿島神社の境内社(4稲荷社 産泰社 御嶽神社)

 豊鹿島神社の境内社(5紅葉稲荷社)
 
 豊鹿島神社の石灯籠

 豊鹿島神社境内二つの碑

 旧住吉神社と御嶽神社(6旧住吉神社)

 住吉神社境内の碑

 東大和市内の神社 

 石川の里

 奈良橋郷

 豊鹿島神社の獅子頭(市指定文化財)