東大和市の地名5(江戸時代初期)
東大和市の地名5(江戸時代初期)
東大和市の江戸時代初期の地名は
「すな」「やくしの前」「竹山」「けかちがわ」・・・
のように比較的狭い範囲を具体的に表します。地名の面白さが凝縮しているようです。
しかし、全てが一覧できる状況にはなく、年貢帳から辿った一部を紹介します。
なお、年貢帳が手元にないため、不完全な事をお許し下さい。
年貢帳の対象となる江戸時代初期の村の姿は独特のものがあります。
・南北に細長く
・凹凸に激しく入り組んだ境界線を持った
・村々が独立して成立し、
・隣り合っていました。
例えば清水村と後ヶ谷村(うしろがやむら)です。
この村々は
・徳川家康直属の家臣(知行人)の領地として
・名主や百姓代、五人組などの組織をもって一村として成り立っていました。
・寛文(1661~1672)の頃、知行人は江戸に移り、知行地は幕府の直轄領となります。
・幕末になって、それらの村が「寄場組合」を構成し、
・やがて、現在の東大和市の区域にまとまってきます。
◎今回は、江戸時代の村を現在の東大和市域の中に位置づけて紹介します。
・江戸時代初期の地名は特徴ある箇所にそれぞれ付けられたらしく
・小規模な区域に
・多数が付けられ
・次第に整理されていったようです。
・従って、明治初頭に伝わるものとは異なっています。
・今回紹介するほとんどの地名が村山貯水池に沈んだ区域、丘陵南麓から現在の空堀川周辺までの範囲で
・高木村は延宝2年(1674)以降に野火止用水付近に達したことを伝えます。
・具体的な位置付けは作業中で、地名の羅列をお許し下さい。
芋窪村
寛永6年(1629)検地帳の地名(大和町史研究8p15)
すな すなくぼ 川はた たきの下 西 西のはち 柿の木畑 だい 田島のだい しょう神ば うながし 小山 すなむかい
しょぶかいと 石河 やくしの前 中原 はしば にしまえ 水くぼ うながしひらき なかはたけ 八まん前 中原道ぶちひらき
のちのまえ 前 中すな けいせういんまえ 前さか下 いけのさわ ならはし八まんまえ はやしまえ 中田屋敷 石河寺屋敷
すなのだいひらき 上おんかいと いなりあと つかごし
蔵敷村
寛文9年(1669)検地帳の地名
屋敷付 屋敷前 府中道 林前 砂はけ橋際 砂はけ下砂 中砂はけ 砂はけ砂 砂はけ 砂ノはけ 台 坂下 田島 芝中 矢崎 山王塚 曽根畑 曽根 仙光谷津 角谷ノ下 あらかい畑道北 あらかい平 塚の前 太子堂前
うな志畑 白山前 西森脇 西谷津竹山 西谷津谷津 西谷津屋敷付 西谷津岡下 芋久保上砂 芋久保坂 久保坂 芋窪宮田 芋久保地ニ(に)入合 芋窪境西久保 芋久保境 芋久保堺 久保 東久保 大茂芋久保堺 内堀堺 内堀堺池淵 新堀堺 南田淵 砂向 宮際 西窪 窪 川向 川淵 畑中 林 前山 茅ヶ谷津 長久保 北河内 北河内屋敷付 北河内田淵 北峯 峯 細入 森ノ下 池ノ上 池ノ下 池尻 山谷津 竹山屋付谷津 竹山 堂ノ東 堂ノ西 地蔵前 橋ノ前 中尾根 堂ノ下 橋場
奈良橋村
検地帳の地名は不明
『狭山之栞』に次の地名が記されています。
小地名 菖蒲ヶ池、鍛冶ヶ谷、新ヶ谷戸、大木ヶ谷戸、葭ヶ谷戸
高木村
元禄3年(1690)~延享5年(1748)検地帳の地名
川端 宮下 門 道上 添下 屋敷付 水久保 はしりおり けかち川(砂の川・現空堀川) けかち川向
そりめ 中砂 後ヶ谷村境 砂道 台道 きょう婦谷戸 地蔵堂 いなり林
寛文9年(1669)検地帳
奈良橋境 海道内(江戸街道・現新青梅街道) 海道向 中原
延宝2年(1674)検地帳
中南奈良橋境 堀端 中原 堀際 後ヶ谷戸境
元禄3年(1690)検地帳
中原 堀端 後ヶ谷境中原
元文元年(1736)検地帳
野火止用水 後ヶ谷村前
後ヶ谷村(宅部村を含む・狭山)
元禄3年(1690)~延享5年(1748)検地帳
屋敷前 南かいと 寺郷 屋敷付 上屋敷 橋向 神明こし 清水前 堀はた 前之台 東前野 砂 前 いなり 諏訪山
諏訪山西之久保 喜左エ門谷 内堀 山下 くね下 前畑 屋敷近所 下島 川上り 嶺 塚場 西楽寺 川島 熊野前
柳谷 小沢 神明腰 かち脇 後谷 高木境 吉原台 いなりこし 前野台 砂はけ 砂久保 廻田谷 梅木谷 内堀□場
御料之前 宮の脇 けんじ 池の下 中台 池のふち いけのうえ 杉山入 入谷 いなり前 とんび谷 かれ松下 嶺谷 太左ヱ門脇
せきとう前 北田 榎木谷 原かいと
清水村
検地帳の地名は不明
『狭山之栞』に次の地名が記されています。
狭山丘陵南麓
小地名 元木、的場、屋数、楯野
村山貯水池に沈んだ区域(上宅部)
小地名 山王谷、荒神谷、山下、峰、中田、峰窪、石塔前、塔頭前、道金寺場
明治6年(1873)の整理で変わった
紹介した地名は明治6年に行われた地租改正により
・地図をつくる
・地番を付ける
必要から、一定の区域にまとめられ
・下図のように新しい名が付いて整理された
と思われます。
紹介した江戸時代初期の地名がなくなり、広域の地名になっています。
この地名は昭和48年(1973)~昭和56年(1981)にかけて町名地番整理が行われるまで「小字」として使われていました。
紹介した江戸時代初期の地名が地図の上で具体的にどこの位置を表したのかは、作業中です。暫く時間がかかり、紹介できなかったのが残念です。
(2021.03.03.記 文責・安島)