狭山湖駅伝競走大会
狭山湖駅伝競走大会
村山貯水池周辺がスポーツの話題で大わきにわきました。
狭山湖駅伝競走大会です。
その歴史を語る貴重なポールが残されました。
近寄ってみないと読み取れませんが
「狭山湖駅伝出発・決勝」
と記されています。
昭和26年(1951)3月21日、春の彼岸の日を選んで大会は開かれました。
・主催者は狭山貯水池愛護会
・後援 東京都・埼玉県・毎日新聞社・西武鐡道・西武バス・立川バスなど
・協賛 貯水池隣接各町村・仝青年団・仝体育団体など
です。当日は集まった人々で、村山下貯水池堰堤の下の広場が埋まったとされます。
1万人を超したとの伝承もあります。
改めて戦後の復興期に持っていた貯水池の魅力に驚かされます。
競技は
・村山下貯水池の周囲を1人1一周
・1チーム6名で、6周して競走
・1人(1周)8.300m、全距離49.800m
・参加者 大学、高等学校、一般
東京、埼玉、神奈川、群馬の強豪の54チーム
でした。
◎回を重ねるごとに人気が高まり、山梨、茨城、栃木、千葉からと参加が増えました。
◎春だけでは物足りないから、秋にもしようと、翌年から「狭山湖秋の駅伝」が開かれます。
コース
村山下貯水池の周囲道路です。
下堰堤の東側の広場から所沢方面に向かい、上の堤防(中堰堤)を通って一周しました。
表彰
表彰を見ると第一回の競技結果、参加団体などが具体的に解るので
閉会式で、行われた表彰の内容を紹介します。
・一般の部 戸塚アスレチックス
愛護会優勝旗、愛護会会長杯、毎日新聞社楯、メダル
・高校の部 川越高校
埼玉県知事杯、西武鉄道杯と副賞、メダル
・大学の部 中央大学
東京都知事杯、メダル
・区間賞一区~六区 バックル
・最高区間記録賞 スポーツニッポン社メダル
大会のきっかけ
この大会が行われたきっかけは、村山・山口両貯水池が
・昭和25年(1950)11月、「観光地百選」に選ばれました。
(毎日新聞社が主催、当時の運輸省、文部省、厚生省、国鉄、GHQの関係部局が後援)
・昭和26年(1951)1月、「都立狭山自然公園」に指定されました。(東京都)
・これらを記念して、狭山貯水池愛護会が主催したものです。
・毎日新聞社が後援になっているのは、観光地百選に関連したことによります。
◎なぜ、名前が狭山湖駅伝なのかの問題ですが、
当時は村山・山口両貯水池を総称して「狭山湖」と呼んだからとします。
狭山湖秋の駅伝
反応は大きく、秋にも大会を開こうとなり
昭和27年(1952)11月23日、「狭山湖駅伝競走大会(秋大会)」が開かれました。
参加は地元の中学校と青年団です。
・中学校
三ヶ島中、瑞穂中、東村山中、大和中、村山中、狭山中、小手指中、山口中
・青年団
三ヶ島村青年団、瑞穂町青年団、東村山町青年団、大和町青年団、村山町青年団、元狭山村青年団、武蔵町宮寺青年団
◎狭山湖周辺の若者の集いです。「もの凄く盛り上がって、張り切った」と伝わります。
・昭和38年(1963)11月23日 第13回まで開催は確認されています。
・内容は調査中です。
全国女子マラソン大会が開かれる
・貯水池の景観を目にしながらの上り下り、曲線のあるコースは
・専門家からも評判を高め
・昭和53年(1978)4月16日、全国女子マラソン大会が行われました。
・社団法人日本タートル協会主催
・村山貯水池(上・下)3周するコースで、1周約13.6㌔です。
・49名が参加し46名が完走しています。
狭山湖駅伝が終了(第31回)
狭山湖駅伝競走大会は、残念ですが
・第31回大会(昭和56年・1981)をもって最終回としました。
・村山貯水池中堰堤の交通量が増加し、
・交通整理の難航から終了を余儀なくされました。
・でも、フアンはおさまりません。
多摩湖駅伝大会として復活
・大勢のフアンが継続を願い
・平成3年(1991)、「多摩湖駅伝大会」として、
・東大和市主催で復活、開催されています。
全国女子マラソン大会、多摩湖駅伝大会等については別に記します。
今回は狭山湖駅伝競走大会を中心として紹介しました。
小山 正著『多摩湖・狭山湖こぼればなし』(個人出版)
に詳細が画像と共に記されています。図書館にあります。
(2021.09.17.記 文責・安島)
大まかな歴史の流れ 昭和時代4