日立航空機(株)付属青年学校跡

 今では、想像も出来ませんが、画像の位置に「青年学校」がありました。昭和14年(1939)に日立航空機株式会社の工場の付属施設として設けられました。戦時中の教育施設です。全国から青少年が集められました。この学校で学び、戦時下の青春をこの地に焼き付けた若者が一時は約3000人以上生活して居たとされます。

青年学校はこの一帯(ヤオコー・丸山台団地)にあった。
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中央の道路(いちょう通り)はなかった。
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青年学校の位置 当時、東大和市駅は青梅橋駅と名付けられていました。
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青年学校

 昭和14年(1939)4月1日、青年学校は開校されました。正式名称は「日立航空機付属青年学校」です。前年に、現在の南街と桜が丘の地域に、工場群と社宅群を建設した東京瓦斯電気工業株式会社の大森工場から移設されてきました。東京瓦斯電気工業株式会社は1年で日立航空機(株)と名称変更したので、青年学校は「日立航空機付属」を名乗っています。

 青年学校は小学校卒業後、旧制の中学校、高等女学校、実業学校などに進学しないで、職業に就いた勤労青少年・少女のために設けられた教育機関です。日立航空機付属青年学校は勉強しながら、有給で、工場に従事し、教育期間は5年間でした。二階建ての建物で、講堂、教室、食堂、居住室によって構成されていました。修身、公民、国語、数学、英語、物理、力学、機械工学、材料学などの教科がありました。学校長や教官は

 学校長  竹本宇太郎 陸軍少将
 軍事教官 梅沢 克己 陸軍中尉他

 とされるように、当時の時代の風潮の最先端でもありました。

 最盛期には3000名の生徒が全国各地から集まったと伝えられます。近隣町村の子弟も入学が認められ、当時の大和村の青年も学んでいます。

 午前中授業、午後は実習または作業でした。「実習工場では、機械工になるための旋盤操作、万力に金属を取り付けハンマーの打ち方(ハツリ)や、ヤスリをかけて仕上げる工法、ゲージやノギスの使い方など・・・」が行われています。(東大和市史資料編4p34)工場生産への実技が日課であったことがわかります。

当時、大和村は狭山丘陵の麓と青年学校の位置する南街の間は一面の畑で、地域的には二分されていた。
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 残念ながら、この青年学校で過ごした青少年達の生き様はわかりません。多感期の少年、青年達には多くの出来事があり、想い出が築かれたと思われます。この記事を目にして、当時の事を知る方が居られましたら、是非、お話をお寄せ下さるようにお願い致します。地元の古老は
「青年学校の施設は整備され、多くの理科標本が集められていた。窓越しにそれを見た若者が幽霊と勘違いしてお化け騒動があった。」と語ります。

 数少ない資料の中に、東大和のよもやまばなしとして、山うなぎの蒲焼きとステッキが伝えられています。

山うなぎの蒲焼きとステッキ

 地方から日立航空機に動員された青年の中に、ヘビ取りのじょうずな人がいて、捕まえたヘビの肉を骨つきのまま、四、五センチメートルに切って串にさして、醤油をつけて焼いてたべた。くさみもなく醤油の味がよくしみて、「山うなぎの蒲焼き」と云って貴重なタンパク源となった。

南街5丁目の栄公園の一角にモニュメント「へびのステッキ」が設置されています。

モニュメント へびのステッキ
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戦後教育の宝物となる

 この青年学校の建物は、東大和市にとって、戦後教育の宝物となりました。工場群は昭和20年、米軍の爆撃で壊滅しましたが、校舎は戦災を免れました。桜街道の真ん中にやけ焦がれた桜の木が続き、不思議と残った二階建ての青年学校の姿が印象深く語られました。

 
 戦後、青年学校制度は廃止され、小学校6年、中学校3年の義務教育、高校3年、大学4年の新しい教育制度が発足しました。当時の大和村には、この新制度に対応する校舎がありませんでした。厳しい教室不足が生じ、その対策として青年学校の建物が生かされました。
 現・第二小学校、東大和市最初の中学校(現・第一中学校)の教室となって難問が乗り越えられました。これらの学校にとっては、創建に近い地と云えます。
 
 当時の画像を添えられないのがとても残念です。東大和市史、同資料編、写真集東大和市・武蔵村山市・瑞穂町の昭和史(千秋社)などを参考にして下さるようにお願いします。
 

 (2017.10.18.記)

東大和の歴史・現代
東京ガス電気工業(株)の進出
工場と住宅・福利施設の一体建設(南街)
給水塔のあった場所
よもやま話「山うなぎの蒲焼きとステッキ」
モニュメント「へびとステッキ」