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昭和13年(1938)村の南端、松と雑木林、一面の畑の中に工場と社宅の建設が始まりました。
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村山貯水池の建設の影響を受けて、村の運営にも経済的な危機が押し寄せていた昭和13年(1938)のことです。松林と一面の畑が広がる村の南端の地に、工場建設の動きが起こりました。東大和市のまちづくりに大きく影響を与えた東京瓦斯(ガス)電気工業(株)の工場建設です。
用地の買収経過
・昭和13年(1938)1月、土地買収交渉が始まりました。(東大和市史資料篇1p27)
◎小松ゼノア社報では、「土地の取得には昭和12年(1937)一杯、掛っている」としています。
・新工場は大森工場の約10倍の30万平方メートルが予定されました。
・着工前に、約264,480平方メートル(8万坪余)を買収し
・第一次拡張計画として、約112,400平方メートル(約34,000坪)が予定されました。
・買収価格、当初は990平方メートル(約300坪)400円でしたが、600円まで値上がりしました。(東大和市史資料篇1p28)
・直径30センチくらいの松の木が1,000本以上もありました。(東大和市史資料篇1p28)
・土地の単価や境界の確認などで担当者の労苦はひと通りではなかったとされます。
小松ゼノア社報には、「これだけ広大な荒涼地を求めるにはかなりの努力と時間を要したようだ」
これまでに発表されている資料を総合すると次の経過を辿り、相当に慌ただしかったことが伺えます。
・昭和13年(1938)5月1日 地鎮祭・給水塔完成
・昭和13年(1938)10月 本工場完成
第一回先遣隊が来村 社員宿舎などが未完成で、大和村や砂川地区の農家の蚕室などを宿とする
・昭和13年(1938)12月 親和寮完成(現在の東大和病院南側周辺)、入居
・昭和14年(1939)1月 住居整備 関係者大森から移転 1月9日、組立工80名入所
昭和14年(1939)2月末 発動機2機初出荷
昭和14年(1939)5月 日立航空機(株)に移行
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画面左側に工場用の給水塔と変電所、右側に住宅・福利施設用給水塔
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昭和14年(1939)6月1日に、陸軍航空本部との間で、その後の増産要素を含めて、生産規模を協議決定
昭和15年(1940)3月迄 月100台
昭和16年(1941)3月迄 月140台
昭和16年(1941)9月迄 月160台
他に試作発動機 年1台
・昭和14年(1939)4月、青年学校と技能養成所開校
・昭和15年(1940)5月15日現在 社宅554戸、別に記す独身寮完成
入居時各戸への水道配管が未了で、共同蛇口、飲料水は特別配給
街灯がなく、同型の家が並び、家を間違えることが多かった
工場、社宅建設で最大の課題が水と電力問題でした。当時の社員がつぶやいたように「広大な荒涼地・・・」であっただけに、全く新規に整えなければなりませんでした。
井戸
水は工場側と住宅地側に一本ずつ深井戸を2本掘りました。
地下水層に到着するまで、何回も堀り下げが必要で、150㍍位堀って、ようよう達しました。関係者から思わず万歳の声が上がったと伝えられます。水脈が深い分味が良く、名泉とされました。
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取り壊される前の給水塔と変電所
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深井戸ポンプ(75馬力)で汲み上げ、一たん沈殿槽に入れて砂を除去し、更にポンプ(横型30馬力)で、給水塔(地上約30㍍)に揚水して、配水しました。爆撃を受けた給水塔はシンボルとして残っていましたが、平成13年(2001)に取り壊されました。
電力
工場建設地は、周辺が原野で玉川上水付近は松林で覆われていました。全く人家がないばかりか、工場に必要な電力はありませんでした。厳密な調査と検討の結果、現在の向原四丁目から特に高圧線を分岐して配電されました。
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高圧線の分岐図
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明治14年迅速図を見ると工場建設地には立木の記号で埋まり、高圧線分岐の周辺は全くの原野でした。
この状況は工場建設時も同じで、変電所までの高圧線配線が大きな課題であったことがわかります。
工場・社宅の建設
工場、社宅の建設は、昭和13年(1938)から行われました。当初の景観がどのようなものであったのかは、残念ですがたどれません。現在、私たちが目に出来るのは、昭和16年(1941)の状況が国土地理院地図空中写真閲覧サービスによる姿です。そこから見える概略図をつくってみました。
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昭和13年(1938)当時とは3年後になりますが、建設当所の姿が想像できます。
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工場区域は、おおむね、現在の桜街道以南、玉川上水・野火止用水に区切られ、東西は現在の東大和市駅から玉川上水駅の全域となります。ところが、当時は図のように約4分の1程度の区域に建設されていました。残りは所々林がある原野でした。現在の墓地地域もやがて工場地域に組み込まれますが、当所は全く施設がありませんでした。
社宅は桜街道の北側、青梅街道を挟んで現・東大和病院を北限として、図で示すような範囲に福利厚生施設とともに建設されました。大型の寮と社宅が組み合わせて作られていた様子がわかります。青年学校の運動場とともに野球場、グラウンド、テニスコートなどのスポーツ施設が設けられています。大和通りや富士見通りの商店街はまだ見ることができません。
交通機関は立川からのバス輸送に頼っていました。
◎東京瓦斯(ガス)電気工業(株)はこの後1年で、軍需産業の拡大、需要から日立製作所と合併し、子会社の日立航空機(株)が設置されて経営が引き継がれました。以後工場も住宅も急速に拡大しました。
建設工事が盛んに進められて、狭山丘陵の麓に居を構える村人達は、日々変わるこの地域を「南町」(みなみまち)と呼びました。
青年学校の生徒が栄養補給に蛇を捕まえて食べた「へびとステッキ」
の話などが「よもやま話」として伝わります。
東京ガス電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場への変化は次に続けます。
(2017.10.21.記)
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