東大和市には古墳はまだ発見されず、奈良時代にかすかに定住が始まったようです。その時代の国の名前はなんと呼ばれていたのでしょうか。

 日本書紀では、
・天武12年(683) 12月13日
・天武13年(684) 5月14日、同10月3日
・天武14年(685) 10月17日
 国境の画定作業に関する記述が続きます。この時に国境が定まり、東大和の地域は武蔵国になったようです。

武蔵国の中の東大和市域
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 その前は
・奈良県伝飛鳥板葺宮跡出土木簡「无耶志国仲評中里布奈大贄一斗五升」
无耶志国仲評中里(那珂郡・埼玉県美里町付近)が貢進した一斗五升の鮒に付けられた荷札
木簡の出土場所は、伝飛鳥板葺宮跡で、天武元年(672)~持統4年(694)。
・川崎市影向寺(ようごうじ)遺跡出土平瓦「無射志国荏原評」
などと「无耶志」「無射志」が使われていました。

 これに対して、和銅6年(713)5月、「諸国の国郡郷名は二字の好字を用いよ」の詔が出されているところから、新たに「武蔵」の名と文字が選ばれたようです。なお、大宝4年(704)に諸国の印を鋳造して国が頒下しているそうで、その時点で定められたとも考えられます。東大和市域もこの時をもって「武蔵国」に属したと云えそうです。

 704年からほど近い707年(慶雲4年)に、東大和市では豊鹿島神社の創建伝承が伝えられます。
 狭山丘陵の谷ッに、武蔵国○○○井之窪(芋窪・芋久保)、武蔵国○○○後ヶ谷(うしろがや)などと小さな集落が散在していたのでしょうか?
 問題はその後、郡が成立し、東大和市域の北側の境界が郡界と定められます。それが、いつ、どのように決まったのかです。次に譲ります。

(2017.09.04.記)

東大和市域の属した「郷」は、そして「郡界」は?

東大和の歴史古代へ