メリケン袋物語

 「大正八年頃のことです。尋常高等小学校高等科二年の男子生徒の発案で、小学生は男も女もメリケン粉の空袋を持ちよりました。袋をきれいに洗い型紙を渡された女子はそれでパンツを縫いました。」

モニュメント・メリケン袋

 『東大和のよもやまばなし』は、こう語り始めます。そして
 「一枚の袋で二枚のパンツができます。ゴムのかわりに紐でしばるようにして女の子にはかせました。学校にもそなえておき、はいていない子にはかせました。これで廻りの者も不本意な目のやり場を気にしなくてすむようになりました。これは当時の発案者の方から聞いた話です。」
 と続けます。当時の小学校の姿が目に浮かぶようです。話はさらに続き
 
 ・小学生は学校の弁当に蒸かしたさつま芋をこの袋に風呂敷がわりにくるんで腰に結んで通ったこと
 ・ばかっぱや(おいかわ)を釣っては、魚籠がわりに入れて水につけておいたこと
 ・蝮(まむし)をとるのが上手な人がいて、捕まえては入れ、五、六匹はとって売ったこと
 ・紺屋に持っていって紺に染めてもらい、二、三枚合せて印半てんにしたこと
  ・・・
 と広がります。

大和村の成立
クリックで大

 大正8年(1919)は大和村が誕生した年でした。
 「メリケン袋」は小麦粉を入れた袋で、縦70~80㌢、横40㌢の白い大きな丈夫な布の袋でした。メリケンは、アメリカの訛りだそうで、「メリケン波戸場」の言葉があるように、広く外国との関連を意味する使い方があります。そこから、「舶来」の意味でも使われたようです。

 この地方では、「メリケン袋」は、時と場において、受け取り方が変わります。
・明治頃は、ハイカラなものでした。
・食うや食わずの食糧難であった第二次世界大戦後は、この袋に入った白い小麦粉はアメリカからのお助け神でした。
 今回の大正8年は全く事情が違います。
 政争の激しかったという芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水と6つの村が合併して
 大いに和そうと「大和村」の名を付けて新しい出発を始めました。
 ・村山貯水池の建設が行われていた時代で、土地代金が動き、移転も含んで一種の土地ブームの空気がありました。
 ・水田用地が大幅に減り、畑地が細分化され、農業経営に危惧が増しました。
 ・小学校建設に追われ、村が財政的に窮迫していた時期です。

 例えば、貯水池建設に関わる測量技師が、米の弁当を食べているのを見て、
 「物日(お祝いの日)でもないのに、銀シャリ・白飯を食ってる」
 と驚嘆の声を上げたのが現実でした。
 農家は自家用の小麦を皮までギリギリにひき込んだ(地粉)真っ黒なうどんが御馳走だったときの話題です。

 一方で、よもやまばなしは
 「四貫目(十五キログラム)入りの粉を買うのですからうどんはよく作りました。粉を水でこね、上に袋を置いてその上にのり、子守りをしながらふんだそうです。子供の重みが加わって力が入り、いい手打ちうどんができました。」
 とします。この話に接する度に、「真っ黒なうどん」が頭に浮かび、どうなっていたんだろうと、謎解きに迫られます。
 話はモニュメント化されて、東大和市ファーマーズセンターにあります。

モニュメント・メリケン袋

 力が満ち溢れるようで、頼もしい限りです。
 東大和市の多彩な大正時代を象徴しているのかも知れません。
 『東大和のよもやまばなし』36

 (2019.05.24.記 文責・安島)

  よもやまばなし

  モニュメント・メリケン袋