米軍大和基地の建設、中学校移転、日米連絡協議会

 大和村あげての反対運動にもかかわらず、米軍大和基地は建設されました。

基地の建設

・基地の建設は、昭和27年(1952)11月14日の閣議で決定されていました。
・土地は土地収用法による強制収用により所有者西武鉄道(株)から買い上げられました。
 用地代について、国は、3.3平方メートルあたり600円を提示、西武鉄道(株)は3.3平方メートルあたり1,000円を主張したとされます。折り合いが付かず、途中800円の提示がなされましたが、最終的には昭和28年(1953)6月30日、3.3平方メートルあたり855円で土地収用法による強制収用によりました。

・昭和28年(1953)9月1日、兵舎二棟の入札が行われる
・昭和29年(1954)4月、兵舎工事完成
・昭和30年(1955)2月、極東空軍大和基地として開設準備
・昭和31年(1956)2月24日、正式開設
 名称は、「FA03012立川飛行場大和宿舎地区」でした。

昭和33年(1958)大和町全図の米軍大和基地周辺 クリックで大

 年代が2年ほど後になりますが、昭和33年(1958)の大和町全図から、十数棟の建物とグラウンドが見ることができます。約3.000人収容可能な宿舎、ハイスクール、400メートルトラックとされます。

基地の性格

 『東大和市史資料篇』1に、次の記述があります。
 「この基地は日本国内における米空軍専用の多目的施設として認可された。(一部省略)
 旧極東空軍司令部の指揮下で、第6000空軍基地部隊に所属する基地職員養成センターとして設置された。
 司令部は1957年7月11日にハワイ島に移転し、また、「大和基地」は、基地外軍事施設として第3016空軍施設「府中基地」の指揮下となった。

 1960年6月時点では、第5防疫部隊、第746空軍軍楽隊、第6000補給部隊がこの基地に駐留していたが、これらの部隊はすべて、空軍第5団、第6000支援部隊の指揮下にあった。」(p138)
 
 返還直前は「YAMATO HIGH SCHOOL」の表示があり、スクールバスで大和基地周辺からも駐留米軍家族の子弟が通学していました。

米軍大和基地の正門

 中学校の移転、小学校の独立開校

 基地の建設が進むと同時に、大和村は教育問題に揺れました。基地予定地と大和中学校・小学校分教場は直線で150メートルしか離れていませんでした。
 村では、教育環境の整備問題が緊急課題となりました。現地に教育施設を置くことは無理であることが歴然とし、多くの住民からの要請も高まり、移設へと論議が移りました。

中学校の移転、第二小学校の建設 クリックで大

 当初は、基地建設に関わる国からの補償費で対応することが考えられました。しかし、国との折衝で、困難であることが明確となり、現有敷地28,258平方メートル(約8,548坪)を国に買い取るよう要請し、新たに学校用地を取得する事になりました。

 運動の結果、3.3平方メートル(1坪)当たり2,400円で国に売却する事が合意されました。現在の市立第一中学校の位置に用地を獲得して、新校舎を建設することになりました。

 この間に大きな変化がありました。基地の建設通知を受けた昭和27年(1952)当時は村でしたが、昭和29年(1954)5月3日、大和町となり、行政的にも幅を広げました。

 昭和30年(1955)、大和中学校校舎新設に着手しました。
 昭和31年(1956)2月、校舎は完成し、旧青年学校利用の建物から移転しました。

 小学校は、反対運動の最中の昭和28年(1953)5月、南街に新設の小学校を建設して大和小学校分校が発足しました。やがて、昭和31年(1956)4月、第二小学校として開校しました。

 大和基地が基地として開始される時、最大の課題であった学校問題はどうにか切り抜けることが出来ました。

日米連絡協議会の発足

 基地の建設が進み、最大の課題であった学校問題が解決に向かう時、基地に来る米軍と町が諸問題にどのように対するかが課題となりました。連絡を密にして、共同で問題解決に当たるため、昭和30年(1955)9月、日米連絡協議会が発足しました。

 基地の正面にその精神が刻まれた石碑が立てられました。
 現在、玉川上水駅前広場内に、その石碑が移されています。

玉川上水駅前広場に設けられた「米軍大和基地の碑」

 そこには英語と日本語で、次のように彫られています。

英語と日本語による碑文
クリックで大

 「大和空軍基地」昭和三十一年二月二十四日 正式開設

 我々は世界の平和が総ての自由愛好国家の間に於ける親睦友好関係に対する努力を通して得られることを心に銘記して居ります。
 日本とアメリカ合衆国両国民の間に育てられた固い絆は平和のための永久の防波堤となるでありましょう。
 我々は大和空軍基地将兵が当基地と大和町民とによって現在享有されている尊敬友情を更に助長するよう総ゆる面に於いて身を処して行くことを願うものであります。」

 開設に至るまでの烈しかった反対運動のあとに、「尊敬友情」の関係を築こうとした願いが刻まれています。住民や関係者には多くの思いがあったことが読み取れます。

 平成2年(1990)、玉川上水駅前広場の整備と共に、碑は広場の一隅に記念碑として設置されました。次の説明があります。

東大和市長の碑文
クリックで大

 「かってこの地域は雑木林でありましたが、地域の発展を願って、昭和の初め工場が建設されました
 この工場は太平洋戦争のとき爆撃にあい、すべてが灰燼(かいじん)に帰しました。
 その後、朝鮮戦争のとき、米軍大和空軍基地が開設されました。この石碑はそのとき基地正門に建設されたものであります。

 玉川上水駅前広場を整備するにあたり、その歴史の証としてここに移設したものであります。

   平成二年一月吉日
           東大和市長 尾崎清太郎」

 

 大和基地は昭和44年(1969)12月15日、立川基地飛行停止になり、昭和48年(1973)1月23日、日米安保協議委員会において、三年後に返還と決まりました。

 その間の動き、その後の運動などについては次に続けます。

 (2019.06.13.記 文責・安島喜一)

 米軍大和基地の建設通知、反対運動

 米軍大和基地の碑

 東大和の歴史・現代