アメリカ軍の空爆により工場壊滅
軍需により拡張を続ける日立航空機(株)立川発動機製作所(以下立川工場)は昭和20年(1945)、米軍の空爆を受けました。工場群は完全に破壊されました。その経過は次の通りです。
昭和20年(1945)
・1月19日、政府は「空襲対策緊急強化要綱」を閣議決定、建物疎開を強化(多摩のあゆみ91p49)
大和国民学校に負傷者収容(武蔵村山市史下p473)
この状況は飛来した米軍機を含め『戦災変電所の奇跡』(東大和・戦災変電所を保存する会」2017年4月1日発刊)に詳しく紹介されています。
・5月24日、25日、東京が大規模焼夷弾爆撃を受ける(多摩のあゆみ91p49)
・5月25日、P51が下貯水池と山口貯水池の取水塔めがけて爆撃(東大和市史p88)
・6月10日、午前8時~9時 B29が高射砲陣地と電波探知機帯を狙って300発位投下(東大和市史p88)
・6月11日、取水塔めがけて投下(東大和市史p88)
・6月、日立航空機立川工場の疎開工場として、横田のトンネル使用のため、疎開を開始、
8月に完了。 8月15日終戦のため、ほとんど稼働しなかった。
・8月1日~2日、八王子大空襲(多摩のあゆみ91p50)
・8月15日、正午、昭和天皇のラジオ放送で、降伏発表。
アメリカ、イギリス、中国のポツダム宣言により無条件降伏
以上の3回の爆撃を受けて、日立航空機立川工場は壊滅状況になりました。操業は不能となりました。
この爆撃、壊滅の様子をこのページで紹介することができないのが残念です。資料をご紹介します。
35ページには、工場に落とされた爆弾の状況を伝える貴重な資料「米国戦略爆撃調査団による爆撃跡図」が掲載されています。
なお、この爆撃の際、米軍機が撃墜されました。その際、米軍兵士がパラシュートで脱出し、現・桜街道の上をパラシュートが下降してきました。その時の状況を『東大和市史資料編』1は次のように伝えます。
「このパラシュートを宮寺春吉さんも見ていた。江戸街道の桜並木の上空と思われる方向に、敵のパイロットのバラシュートが開きゆっくり下降していくのを確認した。その次の瞬間敵愾心(てきがいしん)がむらむらと湧き起っていたので、銃口を”さっと’バラシュートに向けた。「撃つな」と間髪を入れず、誰かが浴びせかけるように怒鳴った。
四十年以上経過した今も「撃つな」の声は耳の奥に残り、白くく開いたパラシュートは脳裏に浮んでくる、と語ってくれた。」(p74)
爆撃の跡は現在ただ一つ、東京都立東大和南公園内に当時の「変電所」が残されています。公園設置の際、取り壊される気配も生じました。貴重な戦争遺跡として市民の保存運動が高まり、幾多の経過を経て残されました。「旧日立航空機株式会社変電所」として市史跡に指定されています。変電所については別に記します。
戦災犠牲者慰霊碑
「日立航空機株式会社立川発動機製作所は太平洋戦争中陸軍専管航空発動機生産工場として時局の要請にこたえていた。
昭和20年2月17日、4月19日、4月24日と相次いで米軍機の空襲をうけ左記110名の尊い犠牲者を出し工場は廃墟と化したよってここにこれらの霊を慰めるため碑を建てるものである。」
職種別犠牲者 学徒14、社員16、工員67、第六中隊1、外部社業員1、守衛4、家族8名 合計111名
殉国産業戦士供養塔
少し離れていますが、円乗院境内(狭山)に「殉国産業戦士供養塔」があります。現在のグリーンタウンの地にあった日本繊維化工(株)の工場建設の時に地中から発見された砲弾の破片や破裂した鉄片から、日本繊維化工(株)がこの地での死傷者を供養した塔です。供養塔については別に記します。