東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ

日立製作所との合併

 昭和14年(1939)515日、当時の大和村に工場建設中の東京瓦斯電気工業(株)は日立製作所と合併しました。そして、子会社の日立航空機株式会社を設立しました。合併の理由は国策によるとされます。小松ゼノア社報創業80周年記念号では

「日立製作所と合併し(5月)更に各部1門ごとにその子会社として新会社を設立 

  航空機部門一日立航空機㈱(5月15日)
  兵器 部門一日立兵器㈱(昭23日立工機)
  造機 部門一日立工作機㈱(昭16日立精機)
 
  日立航空機㈱
   陸・海軍航空機製造 本社・大森
   代表会長 小平浪平
   〃専務 横田千秋(3.000万)
  〈大森・立川〉発動機 羽田〉機体

    国防のため航空機増産に邁進」

と記されています。日立航空機㈱立川工場として、「発動機」生産を担当、「国防のため航空機増産に邁進」することになりました。の間の動きは小松ゼノア社報創業80周年記念号をご覧下さい。工場と住宅、福利厚生は急ピッチで建設が進みました。しかし、その中身は空気が違ってきました。東大和市史資料編1は記します。

 「・・・瓦斯電は日立航空機㈱になり、労働施策はガラッと変ってしまった。日立航空機㈱は日立製作所の影響もあって従業員というものが社員と工員との区別が非常にはっきりしてきた。工員は単なる労働者であるというような気持ちが合併した途端に強く感じられた。したがって住宅は二戸建ては相ならんということになって、協和あたりはすべて四戸建てになってしまった。これをハモニカ長屋などと名前さえつけられてしまった。」(p34)

軍需航空機生産

 工場は日立航空機(株)の中で、最大規模の発動機生産工場と位置づけられ、生産品は昭和飛行機(株)、立川飛行機(株)へ納入されました。工場規模は大きく拡大されました。 

昭和13年~14年頃の工場関係の規模
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昭和19年から20年頃の工場及び社宅、福利施設の規模
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 昭和20年(1945)2500馬力発動機
 これらの発動機は次の軍部飛行機に搭載されました。
 
 完全に軍需工業化したことを示します。日立航空機時代の工場用地などにおいて、東大和市史と東大和市史資料編1との間に数値の差があることは端数処理のみではなく、疎開工場や施設用地の捉え方によるものと推測します。
 

昭和16年(1941)と昭和19年(1944)の社宅地域(福利厚生)の開発状況

 昭和16年(1941)と昭和19年(1944)の社宅地域の開発状況を比較すると歴然と高密度の開発が進んでいることがわかります。残念ですが、国土地理院地図空中写真閲覧サービスによる昭和19年(1944)画像は工場地域の部分がないため社宅地域を比較します。昭和22年(1947)同画像からは工場群は現東大和市駅付近、墓地内まで建物が建設されていたことが推測されます。不完全な予断は避けたいので、画像が残る社宅地域を比較しました。 

昭和16年(1941)社宅(福利厚生)地域の開発状況
国土地理院地図空中写真閲覧サービスによる画像をもとに作成
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昭和19年(1944)社宅(福利厚生)地域の開発状況
国土地理院地図空中写真閲覧サービスによる画像をもとに作成
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村の人口増
 

 まお、人口も急増しました。国勢調査人口によれば 

国勢調査による
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  となっています。工場操業時に倍増したことがわかります。昭和19年当時の工場群の状況を知りたいです。ご教授のほどお願いいたします。次へ続けます。
 

  (2017.10.26.記)

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