力石
-東大和市モニュメント・10-
市民体育館の正面入り口の左側に、モニュメント・力石が置かれています。
そのヒョウキンな姿に、子ども達のよい遊び場になっています。
「オモシロイオジサンの顔」
「なんか重そうだけど、くれるのかな・・・」
「〇〇君はどうしても通れない!」
など、股くぐりにも最適のようです。
この像、何を象徴しているのでしょうか?
「作品紹介」に、次のような説明が彫られています。
「昔は、いまとちがって非常に楽しみが少なかったので、仲間が集まっては、力くらべをするのが楽しみの一つになっていました。
だいたい、20貫ぐらい(75キロ)が普通でしたが、50貫(187キロ)もある石があり、持ち上げれば、村中の話題をさらったものでした。」 -東大和のよもやまばなしから-(一部省略)
だいたい、20貫ぐらい(75キロ)が普通でしたが、50貫(187キロ)もある石があり、持ち上げれば、村中の話題をさらったものでした。」 -東大和のよもやまばなしから-(一部省略)
もう少し詳しく『東大和のよもやまばなし』から紹介します。
「若い衆が四、五人寄ると、石の担ぎっこをする話がまとまって、暗い夜道を神社の境内へと急ぎます。鼻をつままれてもわからないほどのまっくら闇でも、勝手知った村の道ですから足どりも軽やかです。家々からはトントンカラリと働き者の女衆の機織る音が聞えています。
その頃は、神社の境内などに”力石”といわれる恰好の石が置いてありました。米一俵(60キロ)ぐらいは担げなければ男じゃない、といわれた時代でしたから、力石は十八貫から二十貫位(67~70キロ)が普通でした。目方は秤で測って正確に決めることもありましたが、大抵はみんなで持上げてみて、おおよその見当できめました。三割ぐらい多目に表示して、気をよくしていた向もあるようです。
腕に自慢の男達が競って挑戦を試みます。中腰になって持上げた石を、一旦膝の上に乗せ、かけ声諸共に一気に肩に担ぎ上げるのです。同時に腰に力を入れ足をふんばって立ち上ります。そんな時、大向うから黄色い声援でもとんでくれば、思いがけないほどの馬鹿力がでるのでしょうが、残念ながら女性の見物人は滅多になかったようです。
ある時、久米から働きに来ていた娘が、その場に居合せました。男達が口々に重い重いと言っていると、件の娘、石をひょいと持上げ「なるほど、こりゃ重い」といいながら、そっと下に置きました。力自慢の面々も、さすがに度胆を抜かれたという事です。
力石は、狭山神社、熊野神社、豊鹿島神社などの境内にありました。芋窪の観音堂にも置いてありました。今は湖底に眠る内堀部落でも、非常小屋の脇に二つ、三つ置かれていて、若い衆が集っては強力を競い合ったものでした。