豊鹿島神社の要石1

要石全景(前面芋窪街道)

要石全景(前面芋窪街道)

 豊鹿島神社から青梅街道を経て芋窪街道を約400メートルほど南に進むと蓮花寺があります。その南隣に、そこだけこんもりとした森になっていて、鳥居があります。左が蓮花寺で、手前が芋窪街道です。この鳥居の奥にまつられているのが豊鹿島神社の要石(かなめいし)です。 

本社との位置関係

本社との位置関係

   位置的には、豊鹿島神社の本社殿の北に「奥の宮」があり、ここ南に「要石」があって、
三社が一体となっています。
 奈良橋川に「宮田橋」があり、神撰米用の水田があったところと伝えられます。
 これらを結び合わせると、豊鹿島神社の広大な神域の構成が考えられます。
 要石は豊鹿島神社の南端の拠点、シンボルとも思われます。
 
要石13
 鳥居をくぐると祠がまつられています。その前に鎮座するのが要石です。
 
要石14
 地元では「鹿島様の要石」と呼びます。
この石、表に出ている部分は一抱えほどですが、地下は何処まで続くかわからないと伝わります。
市民グループの方々を案内して
「要石とこのお話、どこかで耳にしたことがありませんか?」
と声をかけると
「鹿島神宮!!」
すぐさま答えが返ってきます。
茨城県鹿島市の常陸一宮(ひたちいちのみや)の鹿島神宮です。
 
常陸鹿島神宮の要石

常陸鹿島神宮の要石

 歴史好きの方が説明して下さいます。
「鹿島神宮の要石は
・神代の昔、香島の大神がお座わりになるところだった
・水戸黄門が七日七夜掘っても掘りきれなかった
・巨大なナマズを抑えて地震の被害を守って下さる
 なんたって強力なパワー・スポットだって。

 豊鹿島神社の要石にもよく似た伝承が伝わります。 

1江戸時代の地誌

 『新編武藏風土記稿』(江戸時代末に編纂・1830年代に完成) 

出典 新編武蔵風土記稿

出典 新編武蔵風土記稿

 
 石
 社前の原上むはら生ひ茂れる中にあり、要石と称す、
 其さまをいはば、長さ二尺五寸許、横四尺許、経り一尺五寸、黒色にしていと潤澤あり、
 かかる田間にありては、耕作の妨たりとて、いつの頃か百姓等よりつどひ、穿ちすてんとせしに、
 地下に至るほど石の形ますます大にして、たやすく掘得ベきにも非れば、是より土人 要石と称せる名を得たりと、
 村老の口碑にのこれり、按るにこの石 適々 鹿嶋社前にあれば、かかる話を附合せしにゃ、覚束なし、
 
◎武蔵野の原に「むばら」=茨(いばら)が生ひ茂り、石はその中にあったようです。
 現在の石はねずみ色をしていますが、江戸時代末期には黒い色をして、潤んだ輝きを発していたようです。 
 
2『東大和のよもやまばなし』
 
 最後の結びに
 「・・・、大古の昔このあたりが海だったころ、建御雷命(たけみかずちのみこと)が東国に降った折に、船をつないだのがこの石だという伝説もあります。」
 とします。 
 

3地元の地誌はまた、違った伝承を伝えます。

狭山の栞 要石

狭山の栞 要石

 『狭山之栞』(地元の名主・杉本林志氏が江戸時代末から明治にかけて執筆、1876年出版)
 要石
 要石は楯野にあり、高二尺ばかり、廻り六尺五寸。
 里語にこの奇石の傍らを穿ちて子供の有無を知ると。虫一匹を得れば一子、二匹なれば二子を得、死したるを得ば子死すと云ふ。
 要石の傍に樅(もみ)双生す。一本は廻り一丈一尺、他は七尺余あり。この付近に昔庵室ありしと云へど今はその跡を知らず。 
 
◎地元の研究者として、新編武藏風土記稿にはない、「里語」=郷里の伝承を書き残してくれました。そして、重要な「庵室」の存在を指摘しています。別に紹介する、江戸時代の旅行記『武野遊草』は要石の辺りが「方十間(18メートル四方)の塚」であったことを記しています。両者併せて大きな研究課題と受け留めています。
 
◎鹿島・香取神宮の要石の伝承にある「地震を抑える石」が豊鹿島神社の要石では、「虫封じ」になっています。いかにもこの周辺の空気を伝えて微笑ましくなります。
  (2016.04.15.記 文責・安島喜一) 
 

前の記事

槌頭(つちんど)

次の記事

豊鹿島神社の要石2