豊鹿島神社の要石1
豊鹿島神社から青梅街道を経て芋窪街道を約400メートルほど南に進むと蓮花寺があります。その南隣に、そこだけこんもりとした森になっていて、鳥居があります。左が蓮花寺で、手前が芋窪街道です。この鳥居の奥にまつられているのが豊鹿島神社の要石(かなめいし)です。
位置的には、豊鹿島神社の本社殿の北に「奥の宮」があり、ここ南に「要石」があって、
三社が一体となっています。
三社が一体となっています。
奈良橋川に「宮田橋」があり、神撰米用の水田があったところと伝えられます。
これらを結び合わせると、豊鹿島神社の広大な神域の構成が考えられます。
要石は豊鹿島神社の南端の拠点、シンボルとも思われます。
鳥居をくぐると祠がまつられています。その前に鎮座するのが要石です。
地元では「鹿島様の要石」と呼びます。
この石、表に出ている部分は一抱えほどですが、地下は何処まで続くかわからないと伝わります。
市民グループの方々を案内して
この石、表に出ている部分は一抱えほどですが、地下は何処まで続くかわからないと伝わります。
市民グループの方々を案内して
「要石とこのお話、どこかで耳にしたことがありませんか?」
と声をかけると
「鹿島神宮!!」
すぐさま答えが返ってきます。
茨城県鹿島市の常陸一宮(ひたちいちのみや)の鹿島神宮です。
茨城県鹿島市の常陸一宮(ひたちいちのみや)の鹿島神宮です。
歴史好きの方が説明して下さいます。
「鹿島神宮の要石は
・神代の昔、香島の大神がお座わりになるところだった
・水戸黄門が七日七夜掘っても掘りきれなかった
・巨大なナマズを抑えて地震の被害を守って下さる
なんたって強力なパワー・スポットだって。
豊鹿島神社の要石にもよく似た伝承が伝わります。
1江戸時代の地誌
『新編武藏風土記稿』(江戸時代末に編纂・1830年代に完成)
石
社前の原上むはら生ひ茂れる中にあり、要石と称す、
其さまをいはば、長さ二尺五寸許、横四尺許、経り一尺五寸、黒色にしていと潤澤あり、
かかる田間にありては、耕作の妨たりとて、いつの頃か百姓等よりつどひ、穿ちすてんとせしに、
地下に至るほど石の形ますます大にして、たやすく掘得ベきにも非れば、是より土人 要石と称せる名を得たりと、
社前の原上むはら生ひ茂れる中にあり、要石と称す、
其さまをいはば、長さ二尺五寸許、横四尺許、経り一尺五寸、黒色にしていと潤澤あり、
かかる田間にありては、耕作の妨たりとて、いつの頃か百姓等よりつどひ、穿ちすてんとせしに、
地下に至るほど石の形ますます大にして、たやすく掘得ベきにも非れば、是より土人 要石と称せる名を得たりと、
村老の口碑にのこれり、按るにこの石 適々 鹿嶋社前にあれば、かかる話を附合せしにゃ、覚束なし、
◎武蔵野の原に「むばら」=茨(いばら)が生ひ茂り、石はその中にあったようです。
現在の石はねずみ色をしていますが、江戸時代末期には黒い色をして、潤んだ輝きを発していたようです。
2『東大和のよもやまばなし』
最後の結びに
「・・・、大古の昔このあたりが海だったころ、建御雷命(たけみかずちのみこと)が東国に降った折に、船をつないだのがこの石だという伝説もあります。」
とします。
3地元の地誌はまた、違った伝承を伝えます。
『狭山之栞』(地元の名主・杉本林志氏が江戸時代末から明治にかけて執筆、1876年出版)
要石
要石は楯野にあり、高二尺ばかり、廻り六尺五寸。
里語にこの奇石の傍らを穿ちて子供の有無を知ると。虫一匹を得れば一子、二匹なれば二子を得、死したるを得ば子死すと云ふ。
要石は楯野にあり、高二尺ばかり、廻り六尺五寸。
里語にこの奇石の傍らを穿ちて子供の有無を知ると。虫一匹を得れば一子、二匹なれば二子を得、死したるを得ば子死すと云ふ。
要石の傍に樅(もみ)双生す。一本は廻り一丈一尺、他は七尺余あり。この付近に昔庵室ありしと云へど今はその跡を知らず。
◎地元の研究者として、新編武藏風土記稿にはない、「里語」=郷里の伝承を書き残してくれました。そして、重要な「庵室」の存在を指摘しています。別に紹介する、江戸時代の旅行記『武野遊草』は要石の辺りが「方十間(18メートル四方)の塚」であったことを記しています。両者併せて大きな研究課題と受け留めています。
◎鹿島・香取神宮の要石の伝承にある「地震を抑える石」が豊鹿島神社の要石では、「虫封じ」になっています。いかにもこの周辺の空気を伝えて微笑ましくなります。
(2016.04.15.記 文責・安島喜一)