槌頭(つちんど)
村山貯水池に沈んだ石川に伝わる話です。
村山上貯水池も一番西端に位置するところです。村の中央に湧き水を集めた川が流れ、石川と呼ばれました。石川には池がたくさんありました。槌ヶ窪(つちがくぼ)もその一つでした。池の廻りには家が一軒もなく、松が生い茂って、灌木があたりをふさいでいました。
この池に古くからの主が住み着いていました。『東大和のよもやまばなし』は語ります。
「山には猿や狐、狸などが棲み、深い谷には人影もなく林と池に囲まれていました。水は海のように豊かに、ひでりの時も涸れることなく四季の姿をうつしたそうです。
そこに槌頭(つちんど)という大蛇が棲んでいました。頭が槌の形をした蛇で、槌ヶ窪の地名の由来ともいわれます。その蛇が槌ヶ窪の主だったのでしょうか。元禄年間御料林の払下げがあり、立木を伐り払うと池の水はへり、大蛇はどこかへ行ってしまい再びその姿を見た者はないといいます。
これは狭山の栞に書かれている伝説ですが、今もそのいい伝えが語りつがれているのでしょうか。 槌ヶ窪の池は今は隧道の奥にあり、貯水池が出来るまでは田用水としてたんぼの稲をうるおしていました。
よしの生えている淋しい所で、そこに大きい蛇がいてのまれるから行ってはいけないと子どもたちはいわれていました。蛇が通ったあとか草が巾広くなびいているのを見たという人もあります。
水が冷たくうっそうと茂った木にあたりはうす暗かったでしょうし、近よるなといわれなくても湿った空気やふむ枯草の音にもきもを冷やしたことでしょう。お年寄りに聞いた子供の頃のことです。」(『東大和のよもやまばなし』p167~ 168から)
さてさて、留意すべきは「元禄年間御料林の払下げがあり」のところです。槌ヶ窪の周辺は幕府の御用林でした。元禄8年(1695)、五代将軍綱吉(犬公方)が中野に犬小屋を設置します。ところが、収用しきれず、狭山丘陵周辺の村々も犬の養育を求められました。
元禄13年(1700)には、藁や菰(こも)を供出しています。そして、正徳4年(1714)、浅草の商人が、養育用の薪材を狭山丘陵の村々に求めています。槌頭が居なくなったのは丁度その時期にあたります。
さらに、約150年後、嘉永6年(1853)の黒船騒ぎでは、江戸湾に台場をつくって防御をするため、基礎材に中藤(武蔵村山市)の御林山の松材が切りだされました。槌頭は、さぞ、住みにくくなったことでしょう。
現在、鎚頭はモニュメントになって湖畔第一緑地にその姿を変えています。平成6年3月31日に設置されました。
(2016.11.21.記 文責・安島喜一)