東大和市の明治の小学校2
明治の最初の頃(明治6・1873年)の小学校って、どんな様子?
当時の学校の姿や教室の画像は手元にありません。
「国民皆学」のスローガンのもとに、小学校は上等、下等に分かれていて
・下等4年間 6才から9才
・上等4年間 10才から13才
が就学を義務づけられました。
実際はどのくらいが学校に通ったのか(就学率)
全国の就学率は28%とされます。当時、この地方は神奈川県に属していました。神奈川県では40%弱が伝えられます。
東村山市史では、市内4つの学校の就学率を
明治6年(1873) 32% 28% 13% 18%
としています。その後、学校施設の整備と共に増加したとされます(東村山市史下p85)。
東 大和市域では、最初のことははっきりせず、明治8年(1875)の蔵敷村の状況は
となっています。これは、特殊な例と思われます。女子の就学率は低く、子守や家事手伝いをすることが多く、途中で止めて年季奉公に行く子もかなりいたと伝えられます。
教科は
大きく「習字」「算術」「読物・素読」に分かれていました。
「習字」は、男子はイロハ、当用カナ、村名、国尽、消息往来、商売往来、農業往来などでした。
女子は、イロハ、東京往来、陳情控、女消息などでした。
「読物・素読」は、男子は和漢三字経、智恵の環、世界国尽などで、女子は女小学、女今川、女大学、智恵の環などでした。
明治7年(1874)に蔵敷村の汎衆学舎(第百四十三番小学校)に備えられた教科書と教師用の参考書は次の通りです。(東大和市学校教育のあゆみ(p17)個々の児童は買うことが出来ずに学舎に備えていました。それらは、村の有力者の寄付であったようです。
(2016.12.11.記)