1965・昭和40年のまちの姿(大和町時代)

 1965年・昭和40年の大和町の姿を伝える資料に『町勢要覧』があります。

 「主な施設の位置」として下の図が掲載されていて、その姿が辿れます。

・当時「大和町」でした。1954年・昭和29年、大和村から町になり、1970年・昭和45年、東大和市になります。

・新青梅街道は現青梅街道・庚申塚交差点まででストップしています。
・狭山丘陵南麓と青梅橋までの間は畑で、空間地が多く、
・南街、都営団地、光ヶ丘団地が島のように住宅地を形成しています。
・現在の都立東大和南公園周辺は米軍の大和基地があり、工業団地が形成されています。
・西武拝島線は玉川上水駅が終点で、東大和市駅は青梅街道駅

でした。

現在と比較できれば一番よいのですが、データー量が大きくなり過ぎるため、残念ですが現在分は別に書きます。

 

1965年・昭和40年、大和町『町勢要覧』
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工業誘致

(小規模でしたが多くの事業所が立地を始めました
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市の南部に都市計画として準工業地域を設け、大小の工場を誘致しました。様々な事業所が立地を始めた頃でした。

農産物特産
 

農産物として多摩湖梨、狭山茶の栽培が促進されました。
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 多摩湖梨、狭山茶の栽培促進に取りかかった頃でした。
 
できたての新青梅街道周辺は農地でビルの姿は見えません。
 

玉川上水駅北口近くには米軍大和基地の正門が開かれていました。

 人口

 
 人口は29,454人
 

1965年総人口
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 1961・昭和36年から人口増が始まり年を経るごとに急増しています。
 都心から35キロ圏の特色でもありました。世帯数は7,714世帯でした。
 2017年・平成29年10月1日現在の人口は85,860人 38,567世帯です。
 
 
 
 人口構成は子供とその親の働き盛りが見事な伸び盛りの地域性を示しています。
 今後はどのお湯に変化するのでしょうか?
 東大和市は、2040年(平成52)の人口を次のように推定しています。
 

(出典 東大和市人口ビジョンp4 
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 2040年・平成52年の人口予測は80,270人と現在に比して5,000人程度の減少を推定しています。

 子供と働き盛りが減少し、シニアが増加します。どのようにまちづくりを進めるか考えどころです。

財政

収入

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  収入は町税と地方交付税で64%を占め、その他補助金などで占められ、町の借り入れは2,4%です。

支出

 

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  支出は総務費、衛生費、土木費、教育費でほとんどが占められています。
 
 福祉費は町のため福祉事務所が設置されず、生活保護関係事務は東京都が行っていたため、6,4%と低率です。
 1965年・昭和40年の大和町『町勢要覧』は中央図書館にあります。
 

  (2017.11.30.記 文責・安島喜一)

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