円乗院4-1 転法輪(てんぽうりん)碑

円乗院4-1 転法輪(てんぽうりん)碑

転法輪碑
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円乗院中庭左側に「転法輪」碑があります。随分前のことです。職場の上司でもあった住職さんに伺いました。

「どう云う意味ですか」
「難しいことは本で調べてよ。要は、仏様が道を示されて、我々の迷いを強力に打ち払って下さるってこと。
ようやく鐘楼門から本堂まで整えられたでしょう。
仏様へのお近づきが誰とも一緒にできるもとが出来た。
だから、○○君も、迷いが出たらさ、手を合わせなよ。きっと、仏さんが吹っ飛ばして下さるよ」

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とのお話を頂いたことを思い出します。

鐘楼門をくぐって本堂への参道の左側に大きく目に付きます。
木々の中からは特別の雰囲気を感じます。

転法輪碑の裏面には円乗院の略歴、鐘楼門、庫裏、本殿の改修整備などの経過が彫られています。しかし、気付かずに通り過ぎる場合が多いようです。
手水舎の横からも碑の左側からも裏側に回れます。

長文ですが、全文を写し取ってきました。

賢誉法印墓碑
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「蓋し聞く徳を高め福を興すは仏像を造顕し奉るより大なるはなく 信を起こし善を修するは 伽藍を建立するより勝れたるはなし とは古来からの金言です。

当山愛宕山医王寺円乗院は真言宗智山派に属する寺であって 古くは延寿院と呼び 平家の勢威さかんな平安末期に賢誉法印によって創建されてこのかた八百余年の歳月を重ね盛衰はありましたが法灯絶ゆることなく連綿として今日に及ぶ由緒深い寺であります。

江戸時代延寿院旧地
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然りと雖も当山堂宇の変遷は甚だしく 新編武蔵風土記稿及び地誌類によれば 第十七世秀範律師の代 慶長十二年(1607)八月十八日の風災によって坊舎は悉く吹き潰され 上の屋敷より現在地愛宕山に移り 新たに堂宇を建立し院号は円乗院と改むとあります。

高木明楽寺墓地の法如上人座像
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第二十三世宥賢法印は元禄十二年(1699)十月本堂庫裏の再建 御本尊の修復等の大業を遂げられ 当山中興の祖と嵩められた第二十三世法印宥祥は寛政五年(1793)二月本堂庫裏を再建し 文化六年(1809)十月十五日より十七日まで三日三夜光明真言土砂加持並びに施餓鬼会を修行三界万霊の得脱を祈られるなど 当山の春秋堂宇の盛衰の跡を窺い知ることができます。

近くは明治十七年(1884)十二月八日に不慮の災禍に遭い百年たらずして一山は再び鳥有(うゆう)に帰し 昔日の観を失したのであります。時は流れ 本堂焼失してから九十三年 この間歴代の先師並びに歴代の総代人の方々には その再興を悲願とし幾度か協議を重ねられたが 諸事情と時流に乗ずることができず今日までその建立を見ることができなかったのであります。

修復前の鐘楼門
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偶々 昭和四十三年(1968)十二月明治の火災を免れた往事の規模を知る唯一の鐘楼門の改修が当山復興の足がかりとなり 寺域は逐次整備され 昭和四十六年(1971)七月には客殿庫裏の新築の議が総代世話人会に諮られ 協議の結果 地元の総合建築業者内堀建設株式会社代表取締役内堀喜吉氏と工事請負契約を締結する運びとなり 昭和四十八年(1973)には時恰も宗祖弘法大師御生誕壱千二百年の記念すべき佳年に当り芽出たく竣工 山容大いに旧に復してまいりました。

かくして 翌六月には急遽当山永年の悲願である本堂建立の大事業が企画され準備委員会を結成し 引き続き総代人である現東大和市長尾崎清太郎氏が委員長に推され 回を重ねて三ケ年諸準備完了し 愈々実行に移るため建設委員会を組織して 業界屈指の葛飾柴又 青木工務店代表者青木国氏と工事請負契約を締結 工期二ケ年にしてここに無魔竣工慶賛することができ得ましたことはご本尊不動明王を始め宗祖大師の流れを汲み恩沢に浴する私達の喜びとするものであり 又皆さま方ご先祖への厚恩に報ゆる至上の喜びであると信じ 茲に之を誌します。  合掌

昭和五十四年(1979)五月十二日 建立
円乗院第四十五世 小峰正存
寄進 転法輪碑  本堂建立建設委員長
尾崎清太郎」

転法輪碑の裏面  円乗院の略歴と鐘楼門、庫裏、本堂の建設された経過がびっしりと彫られている
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(2018.04.09.記)

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