殉国産業戦士供養塔(円乗院7-1)
殉国産業戦士供養塔(円乗院7-1)
円乗院の本堂左奥には、忘れてはならない第二次世界大戦中に係わる供養塔の一つがあります。千体地蔵尊に見守られるようにまつられています。現在の桜が丘、立野地区に起こった痛ましい戦争の犠牲に関する供養塔です。
円乗院にまつられているこの碑は、当初、ずっと離れた立野地区(現・ヤオコー北側)にありました。
それが、この地に遷った経過は次の通りです。
旧地は第二次世界大戦中に米軍の爆撃を受けた日立航空機(株)の関連施設があったところです。
殉国産業戦士供養塔のあった旧地には、第二次世界大戦中、日本軍隊に納める航空機のエンジンを制作する軍需工場(日立航空機株式会社)がありました。
そのため、昭和20年(1945)、米軍機による爆撃を受け工場は壊滅し焦土と化しました。200名余の尊い命も奪われました。
昭和36年(1961)、その跡に事業所を展開した企業が九州から進出した「日本繊維化工株式会社」でした。
工場を建設している最中です。戦時中の爆撃を受けた際の遺物である砲弾や機械の破片、何よりも工場に携わった人の認識票の破片・・・などが発見されました。
九州を含め各地から動員された人々のものでした。
九州を根拠地に置いていた日本繊維化工株式会社は、何よりもそれを悼み、工場の一角に供養塔を造立しました。昭和38年(1963)8月27日に除幕式が行われました。
やがて、日本繊維化工株式会社は工場移転をすることになり、碑の扱いが問題となりました。碑は地中に埋められるか、流転の危機に直面しました。関係者間で話し合いが行われ、戦争の風化を避け、保存することに思いが一致しました。
しかし、その場所が課題でした。各方面への相談がなされました。そして、昭和58年(1983)、当時の円乗院総代であった尾崎清太郎東大和市長が愛宕山地蔵講世話人一同(代表世話人・円乗院総代尾崎清太郎)と合意に達し、円乗院に移ることになりました。
その経緯が碑の裏側に刻まれています。
「第二次世界大戦の末期 祖国のため航空機増産に励んでいた日立航空機の工場に昭和二十年二月十七日と四月二十四日の二回艦載機と爆撃機による大空襲があり工場は壊滅し二百人近い人達が亡くなりました。
戦後この跡地に九州より企業進出した日本繊維化工株式会社の人達はこの事を知り、供養塔を建立してその冥福を祈りました。
時代の推移と共に同社は彦根市に転出してこの地は住宅団地に変わったので、私達は関係者と相談し円乗院の聖域にこの塔を改刻移設し永くこの人達の菩提を弔います。
愛宕山地蔵講世話人一同
昭和五十八年五月 当山現董正存代」
碑文の原文は東大和市初代市長根岸昌一氏が書かれています。
碑文中に「改刻」とありますが、当初の碑に「南無妙法蓮華経」と彫られていたものをここに紹介した碑文に改刻したものです。
供養塔のあった地には、住宅団地(グリーンタウン)が建設されています。
詳細は『東大和市史資料編1軍需工場と基地と人びと』p101~108に記されています。
同書文中の図に「ダイエー」の表記がありますので、ダイエー当時の画像を使用しました。
(2018.04.15.記 文責・安島喜一)
広大な寺域には様々な文化財があります。文字をクリックすると記事になります。