大和基地跡地の利用・三分割有償
基地跡地の利用・三分割有償
暫定開放により、基地跡地の市民への一般開放が進みましたが、突如、国は跡地の処理方針を発表しました。
大蔵省案
・昭和51年(1976)1月14日、大蔵省から東京都に対して、大和基地に対する国の利用計画案が示されました。
一般的には三分割とされますが、実質上は四分割案でした。
・西武鉄道㈱用地として、4.3㌶、残り30㌶をA,B,C区域に10㌶ずつ分割する
・A地域=地元(東京都・東大和市)
・B地域=警視庁教養訓練施設
・C地域=保留地(将来の需要に備え国が現状のまま管理する地域)
このままだと地元へのA地域は実質、駅前広場、主要道路用地などになってしまいます。
これ以降、東京都が国と直接折衝する立場にあることから東大和市の交渉相手は東京都に向けられました。
市は1月23日、市報の号外を発行し、「市民の願い打ち砕く計画案」として、受け入れ反対の意志を示しました。
早速行動を開始します。
・1月19日、大和基地対策本部、同協議会が都庁を訪問、東大和市の意思を尊重するように要望を続けました。
東京都案
市が強力な運動を続ける中、
・1月23日、大和基地跡地利用東京都案第一次案が発表されました。
様々な福祉施設や公園がなどが案として提示されましたが、警視庁職員の教養研修施設、西武鉄道の車両施設は大蔵原案と同じように残っていました。
・1月29日、大和基地対策本部・同対策協議会代表が市民利用の実現を都へ要請しました。
・2月1日、市は市報で次のようにうったえました。
・2月16日、東京都が第二次都案発表しました。(一次案に市立小学校用地が加わった)
など、多少の変化がありましたが、市は撤回を求めて要請活動を続けました。
・昭和52年(1977)2月16日、大和基地対策協議会・本部は、市民15,235名の署名簿を添えて、福田内閣総理大臣、坊大蔵大臣、国会へ三分割・有償処分反対の陳情・請願をしました。
第三次都案
市は何回にもわたって、東京都と交渉を続けた結果
・昭和52年(1977)11月、ついに、渉外関係主要都道県知事連絡協議会(基地関係14都道県知事で構成)が、代表世話人会を設置して、大蔵省と交渉することになりました。
・昭和55年(1980)7月30日、東京都は第3次案を示しました。
要望の強かった高校が入り公園が整備され、福祉施設が整備されることになったことなどから、市は第三次と案に合意しました。
昭和55年(1980)10月19日発行「東やまと」市報 大和基地跡地利用臨時号で次のように説明しています。(一部省略)
一、緑地運動公園をはじめ、駅前広場、道路等、当市の都市計画に合致するものであり、また、広く都民の要望する高校、福祉施設、住宅が計画され、地元住民の意向が生かされております。
ついては、特に公園内への市立体育館、プールの設置および都立高校の早期開校等、実現にむけての措置をすみやかにとるよう求めます。
二、当市の跡地利用構想には含まれていなかった、警視庁職員教養研修施設および車両施設が計画されておりますが、これについては、基地跡地および周辺都有地を含めた地域を一体として、地元住民の意向を尊重しながら、合わせて東京都としての広域的な利用
を図るとする、貴職の意を了とします。
・昭和56年(1981)4月13日、国は東京都を通じて処理大綱を示しました。
・昭和56年(1981)5月1日、市は国案を了承しました。
この案を元にして、現在の跡地利用が行われました。
基地は撤去され、正門にあった「大和基地の碑」が玉川上水駅前広場の一角に移されました。
(2019.06.26.記 文責・安島喜一)
米軍大和基地に関する経緯