勝楽寺地域からの移転(山口貯水池に沈んだ集落 東大和市)
勝楽寺地域からの移転(山口貯水池に沈んだ集落 東大和市)
山口貯水池の湖底に沈んだ勝楽寺地域から東大和市に移転した記録です。
村山貯水池の建設に引き続いて、昭和2年(1927)、山口貯水池の測量、建設が進められました。狭山丘陵の谷をせき止め、埼玉県所沢市、入間市、東京都武蔵村山市、瑞穂町にまたがり総面積223万坪(7.36平方キロ)を要しています。
満水面積は50万坪(1.65平方キロ)とされますので、約3倍の森林地帯で囲まれていることになります。
用地は国有地13万坪に加えて、民間からの買収面積が210万坪(6.93平方キロ)でした。昭和2年(1927)から測量などが行われ、昭和3年(1928)に買収が終わっています。
資料の関係から旧村の名称、坪での表示をお許し下さい。山口村は所沢市山口、宮寺村は入間市縄竹、元狭山村は現在の瑞穂町に接してありました。村山村は武蔵村山市、石畑村は瑞穂町になります。勝楽寺村と縄竹村で売渡面積の82%を占めました。
人家は山口242軒、宮寺35軒、村山5軒でした。良質な水田がありましたが、主として畑作が営まれていました。山林が圧倒的に多く、まさに里山集落を形作っていたことがわかります。
東京市役所発刊の『山口貯水池小誌』によれば、282軒の総人口は 1720人余で、10 人以上30戸、 5人以上170 戸、5人以下 80戸のような家族構成でした。
職業は大部分が農業で 190戸でした。織物製造業が 20戸、竹木販売業7戸、養鶏業 6戸、茶・繭仲買商3戸、菓子製造業 3戸、建築講負業2戸、豚販売業 2戸などでした。
その他、醤油製造業、雛人形製造業、精米業、運送業、理髪業、魚類販売業、青物販売業、鶏卵販売業、自転車商、綿商、染料商等が何れも1戸ずつあり、無職 18戸、僧侶2 戸とされます。いずれも概数です。(p147)
この方々が、住み慣れた故郷を後に、下表の地域へ移転しました。それぞれつてを求めての移転でした。勝楽寺は40%の方々が地元の山口に、そして約50%の方々が隣接する所沢、武蔵村山、東大和の各市に移られました。縄竹村、村山村の方々は全戸が近くの宮寺村、村山村に移られています。東大和市域には隣接する勝楽寺から30戸の方々が移転してこられました。昭和5年(1930)に工事が開始されていますので、この間が移転期間と思われます。
勝楽寺地域から大和村への移転
当時の大和村と勝楽寺地域とは隣接していました。尾根筋を通じて小径が通い普段から交流がありました。30戸のうち10戸が芋窪へ、20戸が奈良橋地域に来られました。
湖底に沈んだ方々の祖先は古代、中世からの歴史を形成されてきました。その貴重な積み重ねが新しい地域に移されています。
中山家には中世の五輪塔を初めとして計5基の石仏がまつられ、「おこりぼとけ」の伝承を伝えます。斉藤家には寛永11年(1634)、江戸時代初期の宝篋印塔が伝わります。
狭山丘陵の歴史の重さをしみじみ感じさせます。
(2019.08.18.記 文責・安島)